河原町三条のハマムラさん


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コメント一覧 (1件)

  • 2014年(平成26年5月)まで足掛け80年の営業を経て、三代目が府庁前に移転オープンした、との記述を見つけた。つまり、既に河原町三条には存在しないってことですな。

    京都中華 ハマムラ 
    2014年9月19日(金)OPEN!
    京都中華とハマムラの歴史
    大正十三年・京都で始めて出来た中華料理屋の新たな歴史・・
    創業1924年(大正13年)濱村保三が祇園縄手通り末吉町上ルに、京都で始めての中華料理店、支那料理店「ハマムラ」を開店する、京都中華、発祥の店である。創業者、濱村保三の父、保門は明治30年頃から米国で軽業師一座(サーカス団)として巡業していた、父の興行を手伝うため、18歳(明治40年頃)の時に欧州に渡りドイツを拠点に欧州各地を巡業する、その時に始めて中華料理を体験してそのあまりの旨さに感動する。1918年(大正7年)頃、第一次世界大戦拡大で日本に帰国、日本ではサーカスは差別され営業するのは困難であった、そこで保三は欧州で体験した中華料理を京都にも広めたいと考えて、大正13年、祇園の真ん中に支那料理ハマムラ縄手本店を開業する。横浜中華街まで幾度も職人を探し求めて訪ねた保三はその後、京都中華の基礎を築く事になる腕利きの中国人コック高華吉さんと運命的な出会いをはたして雇い入れ、店は本格的に稼動した。しかし、当時の京都では支那料理は臭うといって店の前を鼻をつまんで通る人も多くてなかなか浸透しなかった、そこで、保三は外国で養った経験と知恵で当時では考えもつかない宣伝に力をいれた、ロゴマークを一般公募し立命館大学生の作品を採用し、また、祇園の舞妓、芸者衆を総揚げして試食させ口コミをねらったり軽飛行機からビラを撒くなど、誰もが驚く宣伝広告を行い、店は見違えるように繁盛した。時を同じく、初代料理長の高華吉氏は和食のメッカ祇園の風土にあわせて京都風の広東料理として作り上げ、それが受け入れられて京都独特のあっさりとした京都中華となった。代表作として「鶏とグリンピースと筍の煮付け」「豚の天ぷら」「蒸し鶏」「焼売」「芥子入り炒めそば」「広東焼そば」「チャップスイ(八宝菜)」「叉焼麺」「酢豚」などがあげられる。戦後、高氏は独立し、京都市内で広東料理店を次々開業。京都を代表する中華料理店を育てた現在、後継店として多くの有名店が営業している、こうしてあっさり味の京都中華は京都独特の料理として根付いたのである。河原町ハマムラは1937年(昭和12年)に濱村保三の実弟、濱村末次郎が独立して河原町三条下がるに開店し多くの人達に愛された。2014年(平成26年5月)まで足掛け80年の営業を経て、三代目が府庁前に移転オープンしたものである。

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