大阪城は、安土桃山時代に築かれ、江戸時代に修築された城。

大阪城は入ったの初めてやった。片町から大阪ビジネスパーク内を歩いていて、そういえば・・・大阪城は大阪城ホール以外に入ったことがなかったわい、ということで。

豊國神社

DoraNeko

にほんブログ村ランキング参加中。赤いバナーをクリックしていただけると感謝感激雨アラレちゃんです。

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    大坂城/大阪城(おおさかじょう)は、安土桃山時代に摂津国東成郡生玉荘大坂に築かれ、江戸時代に修築された日本の城。別称は錦城(きんじょう/金城とも表記)。「大阪城跡」として国の特別史跡に指定されている。なお、城址を含む一帯は大阪城公園(おおさかじょうこうえん)として整備されている。天守は博物館「大阪城天守閣」となっている。「太閤はんのお城」と親しみを込めて呼ばれることもあるが、1583年(天正11年)から1598年(慶長3年)にかけて豊臣秀吉が築いた大坂城(豊臣大坂城)の遺構は、現在ほとんど埋没している。現在地表に見ることのできる大坂城の遺構は、1620年(元和6年)から1629年(寛永6年)にかけて徳川秀忠が実質的な新築に相当する修築を施した大坂城(徳川大坂城)の遺構である。1959年(昭和34年)の大阪城総合学術調査において、城跡に現存する櫓や石垣などもすべて徳川氏、江戸幕府によるものであることが判明。大坂城は、上町台地の北端に位置する。かつて、この地のすぐ北の台地下は淀川の本流が流れる天然の要害であり、またこの淀川を上ると京都に繋がる交通の要衝でもあった。元々は古墳時代の古墳があったと言われ、戦国時代末期から安土桃山時代初期には石山本願寺があったが、1580年(天正8年)に石山合戦で焼失した。この大坂は、西日本を押さえるにも優れ、『信長公記』によると信長はこの立地を高く評価していたため、跡地にさらに大きな城を築く予定であったという。石山合戦終結後は織田信長の命令で丹羽長秀に預けられた後、四国攻めを準備していた津田信澄が布陣し「千貫矢倉」もあった(『細川忠興軍功記』)が信澄は本能寺の変の際に、丹羽長秀に討たれた。その後、清洲会議で池田恒興に与えられるも、ただちに美濃へ国替えとなり、秀吉によって領有された。そして秀吉によって大坂城が築かれ、豊臣氏の居城および豊臣政権の本拠地となったが、秀吉の子、豊臣秀頼の代に大坂夏の陣で豊臣氏の滅亡とともに焼失した。徳川政権は豊臣氏築造のものに高さ数メートルの盛り土をして縄張を改め再建した。その後、江戸幕府が大坂城代を置くなど近畿地方、および西日本支配の拠点となった。文献等にもよるが、日本三名城のひとつ(他の二つは名古屋城、熊本城があげられる場合が多い)に数えられる場合もある。現在は江戸時初期から後期にかけて建てられた櫓や門、蔵など13棟が現存し、城跡は710,000平方メートルの範囲が国の特別史跡に指定されている。天守は1931年(昭和6年)に鉄骨鉄筋コンクリート(SRC)構造によって復興された物であるが、現在登録有形文化財となっており、博物館「大阪城天守閣」として営業している。ちなみに、「おおさかじょう」の表記についてであるが、近代以降「大坂」を「大阪」と表記するように改まったため、現在は「大阪城」と表記することが多い。なお「大阪城」は大阪市の町名にもなっている。

コメントする

目次