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史跡御土居ぃ@西大路御池。この近所で生まれ育ちながらその意味なんぞ全く意識しないでいつしか忘れ去っていた史跡ですw
秀吉っさんが洛中再開発するとき土塁で仕切りしやはったんどすう~♪みたいなw その名残がいまだに続いている例として通りの名前とか、行政区境界線が道路ではなくこの御土居の中心線とか内側とかで引かれている箇所が現存していて、オイラの生家もまさにそのあたりなのさっ。生家の前の道が土居ノ内通で、生家のすぐ裏の隣家との境に道はないけれどそこから区が変わる。という具合で、町名や行政区、学区などが道で仕切られるのではなく、この土塁のあった位置で今も仕切られているっつうこと。何箇所もある史跡のうち写真のものは西大路御池付近のヤツだ。

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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    御土居(おどい)は豊臣秀吉によって作られた京都を囲む土塁である。外側の堀とあわせて御土居堀と呼ぶ場合もある。築造時の諸文献には「京廻堤」「新堤」「洛中惣構え」などと記される。聚楽第、寺町、天正の地割とともに秀吉による京都改造事業の一つである。一部が京都市内に現存し、史跡に指定されている。秀吉時代の御土居の位置に関する記録は現存しないが、現存する遺構や江戸時代の絵図からその位置が推定されている。御土居の囲む範囲は南北約8.5km、東西約3.5kmの縦長の形をしている。御土居は必ずしも直線状ではなく、特に西側では数箇所の凹凸がある。特に現在の北野中学校あたりにあった小さな凸部は「御土居の袖」と名付けられて謎の一つとなっている。全長は約22.5kmである。北端は北区紫竹の加茂川中学校付近、南端は南区の東寺の南、東端はほぼ現在の河原町通、西端は中京区の山陰本線円町駅付近にあたる。また東部では鴨川(賀茂川)に、北西部では紙屋川(天神川)に沿っており、これらが堀を兼ねていた。秀吉は、あい続く戦乱により不分明となっていた洛中(京都)の境を、御土居の築造により新たに定めようとしたという伝えがあり、御土居の内部を洛中、外部を洛外と呼ぶことにしたという。ただし、御土居の内部であっても鞍馬口通以北は洛外と呼ばれることもあった。当時の都人の間でもこの人為的な洛中・洛外の区画は不評であったと見え、落首に「おしつけて、ゆへバ(結えば)ゆわるる十らく(聚楽)の、ミやこの内ハ一らく(楽)もなし」と詠まれた。秀吉が没して間もなく、政権が徳川に移ると、御土居の外の鴨川河川敷に高瀬川が開削され、その畔に商家が立ち並んだことで「洛中」は実質的に鴨川河畔まで広がった。また、洛中西部では洛外に通ずる出入り口が新たに20か所以上設けられた。洛中と洛外の農村の結びつきが強まり「町続き町」が形成されたことで、ここでも実質的な「洛中」の拡大が見られた。都の人々は決して「結わるる」ことはなかったと言える。京都と諸国を結ぶ街道が御土居を横切る場所を「口」(「出入り口」の意)と呼んだ。現在でも鞍馬口、丹波口、粟田口、荒神口などの地名が残っている。『三藐院記』(近衛信尹の日記)によると御土居建造当時の口は10箇所であった。これら街道に繋がらない洛外への道は御土居によって閉塞され、例えば鴨川に架かっていた八坂神社に通じる四条橋は撤去され、祇園祭の神輿渡御の経路も変更を余儀なくされた。また清水寺への参詣路に位置した五条大橋(現松原橋)も撤去され、東方への街道があった六条坊門通(現五条通)の位置に新たに架橋された。1920年(大正9年)に京都府が行なった実測調査によると、御土居の断面は基底部が約20m、頂部が約5m、高さ約5mの台形状であった。土塁の外側(西部一条通以南では内側)に沿って堀があり、その幅は10数m、深さは最大約4m程度であった。これら堀の西側の多くは既存の紙屋川を利用し、また東部では鴨川を代用した。この土塁の出現により平安京では実施されなかった「羅城」が初めて実現したと言える。土塁のための土は膨大な量が必要だったと推測されるが、どのように調達されたのか未だ解明されていない。御土居の上には竹が植えられていた。ルイス・フロイスの『日本史』によると、秀吉が御土居に樹木(竹)を植えさせたのは美観のためであった。また御土居の内部から石仏が出土することがあるが、その理由は不明である。

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