取り残され感ハンパなし@河原町五条。

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ある意味、古都の定め、と言うべきかw


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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    河原町通(かわらまちどおり)は、京都市の南北の主要な通りのひとつ。平安京の域外にあり、豊臣秀吉の御土居の東の外をほぼ沿うように走っており、江戸時代初期に市街地が鴨川まで拡大された際に開通したと見られる。北は葵橋西詰から南は十条通まであり、葵橋西詰以北は下鴨本通と名前を変えて、河原町十条以南は鴨川に沿ってカーブをして久世橋通に繋がる。三条通から四条通にかけては、京都で有数の繁華街となり、商店街である歩道にはアーケードが設けられている。四条通 – 上珠数屋町通間は、鴨川と並行しているため北北東-南南西方向に通りが曲がっており、そのため純粋に南北方向に走っている寺町通・御幸町通とは交差している。平安京の東端である東京極大路、また豊臣秀吉が築いた御土居内側の東辺である寺町通の外側にあたるこの河原町通開削の時期ははっきりしないが、御土居がこの河原町通の西側に沿って築かれていることから、それ以降であると考えられる。1762年(宝暦12年)刊の『京町鑑』には、「中古まで寺町より東は川原なりしゆへに号す。古老曰、天正年中に開けり」とある。都市化の契機は、角倉了以・素庵親子による高瀬川の開削であり、現在の日本銀行京都支店の場所に角倉屋敷があったことから、二条通から南は、かつて「角倉通」と呼ばれていた。1670年には「寛文の新堤」が鴨川に築かれ、それまで鴨川の堤防の役割を果たしていた御土居は無用のものとなり、取り壊されて住宅地等になった。ちなみにこの時代、北は荒神口通周辺、南は松原通(18世紀中頃)まで伸びている。明治時代に入り、京都市三大事業に続く「京都市区改正設計」による街路整備で、現在の形の河原町通が形成された。当時並行する木屋町通には、京都電気鉄道による路面電車が走っており、整備計画では単線であったこの軌道を含めた木屋町通を高瀬川を埋め立てることによって拡幅することと、河原町通の拡築及び市電の敷設するという両論があったが、高瀬川の文化財保護の観点による反対運動もあり、最終的には今出川通から塩小路通までの間の河原町通の拡築及び市営電気鉄道の敷設整備として行われることとなり、大正末年から昭和初年に掛けて行われ、1924年(大正13年)に今出川通・丸太町通間、1927年(昭和2年)に、丸太町通・七条通間、1928年(昭和3年)に七条通・塩小路通間が竣工した。この時に塩小路通から今出川通まで整備された京都市電の河原町線は1978年まで走っていた。1961年(昭和36年)からは、四条通から御池通まで並行する寺町通を北上していた祇園祭の山鉾巡行の経路が、この通りを北上するように改められた。

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