宝山ホール前にある小松帯刀像、西郷隆盛像と相対しております。

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words=’明治維新十傑の一人である小松帯刀の像が宝山ホールのある鹿児島県文化センター前に建てられております。照國神社を見つめるように置かれているとともに、西郷隆盛像とも相対しております。明治維新の直後に病死したので西郷隆盛や大久保利通ほど知名度がないのですが、島津の忠臣で病死がなければ明治新政府の筆頭になったであろうとされておる人でございますな。’
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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    小松 清廉(こまつ きよかど)は、幕末の政治家。旧名は肝付 兼戈(きもつき かねたけ)。通称は尚五郎(なおごろう)のちに帯刀(たてわき)。維新の十傑の1人。薩摩国吉利(2,600石)領主。薩摩藩を雄藩に押し上げた藩政改革と幕末政局(薩長同盟、大政奉還など)において重要な役割を果たした。明治維新直後に病気で死去したため、明治政府で活躍した同じ薩摩出身の西郷隆盛や大久保利通の知名度に隠れがちであったが、小松家について多く記した玉里島津家史料の黎明館への寄贈により、21世紀にその事績の研究と再評価が進んだ。愛妻家で、新婚時代の安政3年4月23日から5月6日(1856年5月26日から6月8日)にかけて当時珍しい新婚旅行で霧島の栄之尾温泉に滞在した記録がある。この滞在には千賀の父も同行した。ちなみに日本初の新婚旅行を行ったとされる龍馬と龍は寺田屋事件直後の慶応2年(1866年)であり、実際には清廉のほうが10年早く新婚旅行を行っていたことになる。寛容で雄弁明快な人柄で人望が厚く、若くして薩摩藩の重職に取り立てられた。西郷隆盛に初めて会いに行った際、西郷が、身分としては遥かに上とはいえ自らより7歳若い小松の度量を試そうと、わざと部屋で横になり小松を待っていたところ、小松はその姿を見て立腹することなく、むしろ西郷のために枕を持って来るよう従者に促したため、西郷はその一言を聞くや居住まいを正し小松に詫び、忠誠を誓ったという。新政府においても将来を嘱望された。側室の琴は帯刀(清廉)の死後、長男・安千代を鹿児島の千賀に預け、帯刀と親交の厚かった五代邸で長女の壽美とともに暮らした。大正11年(1922年)、時の鉄道大臣は、清廉の子孫である伯爵・小松重春に品川駅立売営業権を許可している。これは、清廉が慶応3年(1867年)に鉄道敷設建白書を呈上した功績を考慮したことに因んでいる。これにより、小松家は「株式会社常盤軒」として省線(現:JR)品川駅で駅弁などの販売を開始した。しかし2010年(平成22年)の品川駅改装を機に、駅ビルのルミネ・ザ・キッチンに移ったが程なく閉店した。駅蕎麦屋や仕出し弁当などは引き続き営業している。坂本龍馬の新政府の人事構想では、西郷や大久保、桂らを抑えて、筆頭に挙げられていた。

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