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DoraNeko
飫肥駅前にある泰平踊像でございます。城下町飫肥に伝わる踊りなんですな。飫肥城を模して建てられている飫肥駅舎にマッチしていますね。
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コメント一覧 (1件)
Wikipediaから引用
飫肥城(おびじょう)は、宮崎県日南市飫肥(日向国南部)にあった日本の城。江戸時代は伊東氏飫肥藩の藩庁として繁栄した。酒谷川北岸、シラス台地の地形を利用して曲輪を幾つも並べた群郭式の平山城である。伊東四十八城の一つ。飫肥の地は、酒谷川河口の油津(あぶらつ)と河川舟運で結ばれた要地であり、江戸時代には良材として知られた飫肥杉を積み出した。飫肥城は南北朝時代に、土持氏が築城したのが始まりと伝えられ、飫肥院とも呼ばれていた。時代は下って、室町時代末期の長禄2年(1458年)、九州制覇を狙う薩摩国の戦国大名島津氏が、日向の中・北部で鎌倉時代から勢力を蓄えてきた伊東氏の南下に備えて、島津氏の一族で志布志城主だった新納忠続を飫肥城に入城させた。戦国初期は島津氏の属城で、初めは築城主の土持氏が治めていた。1484年(文明16年)、伊東氏が飫肥に侵攻し、当時の当主である伊東祐国が戦死してしまうと、伊東氏の本格侵攻を恐れた島津氏は、領土の割譲と戦の原因となった飫肥城主の交代(このときより飫肥城は島津豊州家の支配となる)によって急場を凌いだ。しかし、当主を失った伊東氏の飫肥城にかける執念は凄まじく、その後も伊東氏による飫肥侵攻が断続的に続けられることとなる。伊東義祐(祐国の孫)は1544年(天文13年)に飫肥城攻めを始め、1560年(永禄3年)には室町幕府将軍足利義輝が和議を仲介したが、1562年(永禄5年)には飫肥城を手に入れた。子の伊東祐兵に飫肥の地を与えた。しかし、1572年(元亀3年)に伊東氏が木崎原の戦いに敗れて衰退し始めると、島津氏は日向で勢力を拡大。1576年(天正4年)に飫肥城を再び支配下に収めた。一時飫肥を失った伊東祐兵は豊臣秀吉に仕えて、1587年(天正15年)の九州平定では先導役を務めた。島津氏が豊臣政権に降伏したため、祐兵は翌1588年(天正16年)に飫肥城主に返り咲いた。以後の伊東氏は、関ヶ原の戦いでは九州では数少ない東軍側として働くなど巧みに立ち回り、廃藩置県で飫肥藩が廃止されるまで一貫して飫肥の地で家名を全うした。伊東氏と島津氏の飫肥城争奪戦は100年以上の長きにわたった。