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日比谷公園にある著名なレストラン、日比谷松本楼でございます。若かりし頃のワタクシなんぞはこのような高級なレストランは敷居が高くて無縁でございましたが、有名な10円カレーは是非一度食べて見たいと思っていましたですな~、いまだ実現していませんが。

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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    松本楼(まつもとろう)は、株式会社日比谷松本楼が運営する日本の東京都千代田区日比谷公園内にある洋風レストランである。1903年に東京市が現在の日比谷公園を開園するにあたり、銀座で食堂を経営していた小坂梅吉が落札し日比谷松本楼として6月1日にオープンした。当時としては珍しい洋風レストランに人気が集まり、1906年秋には「東京料理店番付」で”西の関脇”に選ばれたほどだった。その後も日比谷公園とともに数々の歴史の舞台となり、現在に至る。明治初期に信州伊那出身の小坂駒吉が銀座6丁目にあった松本出身者の飲食店を譲り受けて一膳めし屋を始めたのが松本楼の端緒となる。1872年の銀座大火により、銀座煉瓦街が造成されることになり、完成後そこで料理屋「松本」を開業、その後店を広げて「松本楼」と改称。駒吉の二男・小坂梅吉が東京市会議員だったときに、日比谷公園の改装が決まり、西洋の公園に倣って飲食店が設置されることとなり、梅吉が入札予定価格をはるかに上回る坪3円50銭で150坪を落札し、1904年に洋風喫茶店「松本楼日比谷店」として開業した。日露戦争の講和条約ポーツマス条約に抗議する国民集会(日比谷焼打事件)が開かれた際に、松本楼が国士の集合場所になって以降、日比谷公園は度々政治活動の舞台となり、松本楼はその会場として知られるようになった。大正初期の第一次護憲運動ではバルコニーから憲政擁護の演説が行われた。1923年に関東大震災により焼失。その後バラック住宅から復活し、これを機に梅吉の庶子小坂光雄が2代目社長となる。1932年には光雄ら丸の内飲食業組合員有志の発案により、丸の内音頭が制作され、日比谷公園で盆踊り大会が始められた。梅吉はその後1936年に衆議院議員(のちに貴族院多額納税者議員)に当選している。大東亜戦争(太平洋戦争)に突入するまで、引き続き人気のあるレストランとして日比谷公園の顔になった。しかし1942年に東京で空襲が始まると日比谷公園が軍の陣地となり、1945年2月、遂に松本楼が海軍省の将校宿舎となった。終戦後には進駐してきたGHQの宿舎として接収され、約7年にわたり営業できない日々が続いた。1951年11月にようやく接収が解かれ、松本楼は再スタートを切る。その後も日比谷公園で営業を続けていたが、1971年11月19日、沖縄返還協定反対デモが日比谷公園内で激化し(日比谷暴動事件)、その中で中核派の投げた火炎瓶の直撃を受け、2代目建物も焼失の憂き目にあう。3代目松本楼のオープンは1973年9月26日と再建に約2年を要した。これを機に10円カレーが始まる。3代目建物には結婚披露宴会場、大小の宴会場やフランス料理コースの個室など、様々なニーズに応えた設備も登場。2度の焼失にあいながらも1983年には創業80年記念に1日店長として森繁久弥を迎え、2003年には創業100年を迎え、現在に至っている。

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