九条駅と安治川隧道を結ぶアーケード商店街、キララ九条商店街。

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words=’安治川隧道南詰から九条駅のある中央大通まで延びているアーケード商店街、キララ九条商店街でございます。正式にはキララ九条3町商店街、九条新道3丁目振興組合というらしいですな。アーケードが出来たのは1996年頃だそうです。古くからある商店街で、昭和レトロな看板などが見られたりしますな。’
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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    九条(くじょう)は、大阪府大阪市西区の地域名称。または、同地域中部の町名。現行行政地名は九条一丁目から九条三丁目。現行町名の九条は東は千代崎、南は九条南、西は安治川、北は本田(ほんでん)に隣接し、九条南は東は千代崎、南は境川、西は安治川(町名)、北は九条に隣接する。東をみなと通、中央を中央大通が縦断し、中央大通の九条2交差点付近に九条駅がある。もとは淀川の河口に蓋をするような大きな中洲があり、南浦と呼ばれていた。南浦は現在の西区本田・九条・九条南・安治川・境川・川口(旧古川以南)・千代崎の北西部、此花区西九条の大半などに相当する。1619年(元和5年)に南浦の北東端に大坂船手の組屋敷・与力屋敷・同心屋敷が置かれた。1624年(寛永元年)には土豪の池山新兵衛の協力を得た幕府役人の香西晢雲によって住宅・墾田開発が計画された。なお、開発主体については米屋弥右衛門など12名との説もある。幕府儒官の林羅山によって衢壌島(くじょうじま)と名付けられたが、1674年(延宝2年)の洪水の際に九条家の木笏が漂着したことから九条島の表記に改められたとの伝承がある。また、村名も当初は九条島村と呼ばれた。寛永元年の開発は九条島に近接するもう一つの中洲でも同時並行で行われた。こちらの中州には開発時に四貫文で買い取られたことから四貫島と名付けられたとの伝承があるが、この開発によって九条村の支郷扱いだった中釜村が四貫島村と改称の上、九条村から分離している。九条島は河流・航行の妨げとなっており、1684年(貞享元年)から1687年(貞享4年)にかけて、淀川水系の河川改修を幕府から命じられた河村瑞賢によって安治川の開削工事が行われ、九条島が2つに割られた。以降、安治川左岸が九条村、右岸が西九条村と呼ばれるようになった。また、安治川沿いでは新地開発が行われ、1688年(元禄元年)に安治川新地9町(安治川上1〜2丁目・安治川北1〜3丁目・安治川南1〜4丁目)が成立し、大坂三郷に組み込まれた。このうち安治川南の東部が現在の西区安治川におおむね該当する。安治川開削によって、大坂市街への航行が可能になり、それまで伝法村が担っていた大坂の外港機能は衰退し、どちらも四貫島に設けられていた大坂船手の船奉行所は九条村の北東端へ、船番所は安治川北1丁目へ移転するなど大きく変容した。安治川と並び、大阪湾から大坂市街へ遡上する二大航路の一つである木津川沿いも、船手組屋敷の南側に戎島町(のち「戎」の字の使用が禁止されたため梅本町に改称)、尻無川左岸の寺島に木津川町・九条村町・寺島町と市街化していた。1773年(安永2年)には九条村の葭原仁右衛門によって、寺島の南に広がる芦原で新田開発が行われ、岩崎新田が成立した。

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