廿日市市役所前駅ロータリー広場のモニュメント、神鴉でございます。

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words=’宮島線の廿日市市役所前駅ロータリー広場のモニュメント、神鴉という名前でございます。おがらすと読むそうです。遠目で見た時、飾り柱にホンモノのカラスが止まっているのかと思いましたら、違いましたね。神鴉ってのは嚴島神社御鎮座にまつわる伝承の、神の鴉なんですな。まーたヒトツお利口になっちゃったもんな~、でございます(←なんじゃそりゃw)。’
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  • Wikipediaから引用
    廿日市市(はつかいちし) は、広島県の西部に位置する市。広島市の西に隣接し、瀬戸内海(広島湾)に面した港町である。 日本三景・「厳島(安芸の宮島)」が特に有名である。同島の厳島神社は世界遺産にも指定されており、旧吉和村は豪雪地帯となっている。市の母体は旧佐伯郡廿日市町である。廿日市は中世以来、厳島神社の造営・修繕と西中国山地産の木材の集積を基盤とした木材産業の町であり、山陽道(西国街道)の廿日市本陣を中心に発展した。 高度経済成長期以後は広島市の西のベッドタウンとして発展し、1988年(昭和63年)4月1日に単独市制施行して「廿日市市」が発足した。全国で655番目の市、広島県では14番目の市(なお、合併により消滅した松永市と因島市を除き、存続している市としては12番目)である。廿日市の町は商業・工業都市の側面が濃かったが、平成の大合併によって周辺の4町村(佐伯町・吉和村・大野町・宮島町)を編入したことで、西中国山地の豊かな自然や世界遺産にも選ばれた厳島神社を含む安芸の宮島などの新しい顔を併せもつこととなった。本来、「廿日市(はつかいち)」という地名は現在の廿日市1丁目・2丁目付近を指す狭い地区名称であり、1889年に廿日市町が発足して以降、合併を重ねて次第に広範囲を指すようになった。廿日市という名称は、現在の中央公民館(天神)周辺で中世以来開かれていた「廿日(はつか)の市」に由来する。厳島神社は平清盛の庇護により平安時代末期に大きく発展し、地域に影響力をもったが、鎌倉時代に入ると承久の乱に伴う権力争いの中で貞応年間(1222年 – 1224年)に火災で社殿を焼失した。鎌倉幕府の命により厳島神社を再建するために対岸の地域(現在の廿日市市本町)に多くの鋳物師たちが移り住んだことから、塩・木材等の生活物資・再建物資の集積が始まった。 厳島神社の年4回の祭礼の最終日がいずれも20日であったことから、早くも鎌倉時代中期には毎月20日に市が立つようになり、二十日の市=「廿日市」という名称が徐々に定着していったと思われる。当時、この地域一帯は「佐西(ささい)の浦」と呼ばれていたと考えられている。1370年(応安3年)、今川貞世が九州探題として大宰府に下向する際に記した紀行文『道ゆきぶり』の中に、貞世が「かひだとかやいひける浦」(「現在の安芸郡海田町)を通って「佐西の浦」(佐西郡の海岸、現在の広島市佐伯区五日市から廿日市市串戸付近)から宮島へ参詣し、「地の御前」(現在の廿日市市地御前)から山道に入って周防国へ向かう旨の記述がある。廿日市という地名の初出は1454年(享徳3年)である。山口県柳井市の賀茂神社に残された当時の詫び状に、同神社の梵鐘(享徳3年頃鋳造)の鋳工「廿日市ひかしかり屋三郎次郎」の名が見える。現在も日本各地に残る「○日市」という地名は安土桃山時代以降盛んになった市に由来するものが多く、鎌倉時代に市立てされたことが確認されている廿日市は、現存する最も古い「市」地名の一つとされる。

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