下石井公園にある、杉山岩三郎翁の胸像。

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words=’蒸気機関車D51917号機がある下石井公園にある、杉山岩三郎翁の胸像でございます。どなたなのか存じ上げませんでしたので調べて見ましたら、中国鉄道の社長を務めた方でしたですな。実業家で杉山平助毒舌評論家として知られた杉山平助の父、のだそうです。’
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  • Wikipediaから引用
    杉山 平助(すぎやま へいすけ、1895年6月1日 – 1946年12月21日)は、昭和初期の文芸評論家。父杉山岩三郎(1841年 – 1913年)の庶子として生まれる。岩三郎は岡山藩士の家の生まれで、第二十二国立銀行や岡山紡績所の設立に関与した後に中国鉄道社長などを歴任し、「備前西郷」と呼ばれた実業家だった。芸妓だった母の宇野を1歳で失い、大阪市の八百屋の子として養育されたのち、7歳で東京の料理屋旅館「鯛屋」に引き取られ、岩三郎が宇野没後に落籍した若い芸妓に育てられる。明治35年、尋常小学校3年のときに伯父稲垣洋一郎の子・稲垣平助として慶應幼稚舎に転入、寄宿舎で暮らす。明治44年に父を訪ねて認知を乞い、杉山平助となる。慶應義塾大学理財科予科に進むが、1913年病のために中退。南湖院で5年ほど療養する。1918年、横浜税関官吏となるがやはり病により退職。1925年に自伝的小説『一日本人』で生田長江に認められ、文芸評論などを書く。菊池寛に認められ、『文藝春秋』で匿名時評を担当。1931年から『東京朝日新聞』に氷川烈の筆名でコラムを執筆。自由主義的な批評で人気を集めたが、やがて軍国主義的になっていった。歯に衣着せぬ文章で同時代の人々からは「毒舌評論家」として知られていた。1937年の日中戦争勃発後は中国に滞在し、戦地報告を書いた。そのとき中国学者で北京在住の中江丑吉を訪問し、下劣な話を持ち出して中江を憤慨させ、その後の書簡でも「下等の油虫」と形容されている。内閣情報部の漢口攻略戦「ペン部隊」に選ばれるなど戦争協力を強めたが、支持していた松岡洋右外相が失脚するとともに文壇から居場所を失った。1943年の『文芸五十年史』はベストセラーになったが、戦後間もなく死去した。父・杉山岩三郎(1841-1913) – 岡山藩士中川亀之進の次男・中川厚として極貧の中で育つ。下野閑雲、田口江村に学び、『左伝』を愛読し、鹿児島に西郷隆盛を訪ね伊地知正治から講義を受ける。1867年上洛し、備中松山征討に従軍後、岡山藩監軍として東北戦争、箱館戦争に参戦。廃藩置県後、岡山県典事、島根県権参事を務めたが、1872年に辞職して帰郷、1883年に欧米視察、士族授産のために1877年に第二十二国立銀行を創立したのをはじめ、岡山紡績所、有終社、岡山電燈、岡山セメント、岡山農工銀行、山陽商業銀行、青銅硫酸会社などの発起・設立に関わり、岡山商工会議所会頭を2度務め、1892年には陰陽連絡期成同盟会委員長に就任、1895年には安田財閥系の中国鉄道社長となった。娘婿に『信用組合論』の杉山孝平。

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