伊勢若松駅前にある、大黒屋光太夫の像でございます。




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words=’近鉄名古屋線の伊勢若松駅前にある、大黒屋光太夫の像でございます。吾輩はこの方を存じ上げなかったので調べてみまするに、江戸時代後期に嵐でアリューシャン列島に漂着してロシア帝国の女帝エカチェリーナ2世に面会した後に帰国に成功して以降、江戸幕府で異国見聞者として活躍し、なんやかんやで蘭学発展に寄与したっつう人なんですな、会ったことがないからよーわかりませんけど。’
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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    大黒屋 光太夫(だいこくや こうだゆう、宝暦元年(1751年) – 文政11年4月15日(1828年5月28日))は、江戸時代後期の伊勢国奄芸郡白子(現在の三重県鈴鹿市)の港を拠点とした回船(運輸船)の船頭。天明2年(1782年)、嵐のため江戸へ向かう回船が漂流し、アリューシャン列島(当時はロシア領アラスカの一部)のアムチトカ島に漂着。ロシア帝国の帝都サンクトペテルブルクで女帝エカチェリーナ2世に面会して帰国を願い出、漂流から約9年半後の寛政4年(1792年)に根室港入りして帰国した。幕府老中の松平定信は光太夫を利用してロシアとの交渉を目論んだが失脚する。その後は江戸で屋敷を与えられ、数少ない異国見聞者として桂川甫周や大槻玄沢ら蘭学者と交流し、蘭学発展に寄与した。甫周による聞き取り『北槎聞略』が資料として残され、波乱に満ちたその人生史は小説や映画などで度々取りあげられている。

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