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DoraNeko
豊臣秀吉を祀る豊国神社でございます。方広寺の隣地に位置し、正面通の突き当りに豊国神社大鳥居がございます。正面通の所以となった、方広寺大仏殿跡は豊国神社の真後ろになります。京都市の原型である平安京は応仁の乱以来の大戦乱で原形を留めぬほどに焼かれ破壊の限りを尽くされたため荒廃してしまったのでございますが、豊臣秀吉により新たに作り直されております故に、現在の京都市内の町割り区割りの殆どの部分は豊臣秀吉が作ったものなのでございます。平安京の碁盤の目だった町割り区割りは一部を除き異なってしまったのでございます。奇しくも豊臣秀吉の墓所である豊国廟は自らが改造した京都の市内を見渡すかのように、東山の阿弥陀ヶ峰山頂にあるのでございます。
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Wikipediaから引用
豊国神社(とよくにじんじゃ)は、京都市東山区にある神社。旧社格は別格官幣社で、現在は神社本庁の別表神社。神号「豊国大明神」を下賜された豊臣秀吉を祀る。豊臣家滅亡とともに徳川家康の命により廃絶となったが、のちに明治天皇の勅命により再興された。現在の敷地の大部分は、かつて京の大仏を安置する方広寺の寺領であったが、明治新政府により収公され、最終的に豊国神社境内となった 。豊国神社の参道に敷かれる石材は、方広寺境内収公にあたり、寛政10年(1798年)の焼失後も残されていた方広寺大仏殿の内部及び基壇に敷かれていた床石材を転用したものである。主祭神の居城があった大阪市中央区の大阪城公園や滋賀県長浜市のほか、出身地の名古屋市中村区などにも豊臣秀吉を祀る豊国神社が建てられている。慶長3年8月18日(1598年9月18日)に亡くなった豊臣秀吉の遺体は火葬されることなく伏見城内に安置されていたが、死去の翌年の慶長4年(1599年)4月13日、遺命により京の大仏(方広寺)の東方の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され(『義演准后日記』・『戸田左門覚書』])、その麓に高野山の木食応其によって廟所が建立されたのに始まる。廟所は秀吉の死後間もなく着工されたが、着工時はまだ秀吉の死は伏せられていたため「大仏の鎮守社」と称していた。この鎮守社は北野社に倣った八棟造りだったと『義演准后日記』慶長3年9月7日条に記されている。秀吉は奈良東大寺大仏殿を鎮護する手向山八幡宮に倣い、自身を「新八幡」として祀るように遺言したといわれる。「大仏の鎮守」として着工された社は、秀吉の死が明らかになるのに合わせるように「新八幡社」と呼ばれるようになる。慶長4年4月16日、朝廷から秀吉自身の望みとは相違して豊国乃大明神(とよくにのだいみょうじん)の神号が与えられた(『押小路文書』「宣命」)。『豊国大明神臨時祭礼御日記』によれば日本の古名である「豊葦原中津国」を由来とするが、豊臣の姓をも意識したものであった。神号下賜宣命には豊国大明神は兵威を異域に振るう武の神と説明されている。4月18日に遷宮の儀が行われ、社は豊国神社と命名された。4月19日には正一位の神階が与えられた(『義演准后日記』。なお、豊国神社は豊臣秀頼の希望により大坂城内にも分祀された。秀頼自身は本社創建の際には参列しておらず、慶長16年(1611年)の二条城訪問の折に最初で最後となる参拝を行っている。大明神号となったのは、八幡神は皇祖神であるから勅許が下りなかったとする説や、反本地垂迹説を掲げる吉田神道による運動の結果とする説がある。