竹中精麦所跡(京都市)

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DoraNeko

ここに琵琶湖疏水の水で水車を回していた精麦所があったのでございます。竹中精麦所水車水路跡でございます。疏水を利用した同様の水車と水路は他にも数多くあったのだそうですが、現存しているのはもうここだけになったのだそうです。普段は非公開なんでございます。保存会によるカフェ時忘舎があるんですが、今は会員制となっております。

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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    竹中精麦所水車水路跡(たけなかせいばくじょすいしゃすいろあと)は、京都府京都市左京区にある大正時代の水車動力による精麦所の水路跡。この水路は琵琶湖疏水が明治23年に完成し、同年に水車用水使用申請第2号として明治24年に第1号・2号同時に許可された水路である。 1917年(大正6年)、竹中精麦所の竹中亀吉が4代目の所有者となり、精麦所の直径5m近い大水車を回すために用いられた。三条通からも臨めた水車の巨大さに、通称「水車の竹中」と呼ばれ親しまれていたという。商標は「司麦」を用いていた。琵琶湖疏水と白川の分水点下流近くに位置しているが、水の取り入れは白川ではなく琵琶湖疏水から直接行われている。稼働していた当時は水量もあり、その水車動力を用いて精麦、精白の臼を24時間稼働でついていた。麦は精麦後俵詰めされ、卸す問屋も営んでおり、脚気予防に注目した陸軍省等も顧客としていた。工場からの積み出しは、初期には荷馬車、後期は三輪トラックが用いられた。食料管理令の強化等を理由として1940年(昭和15年)に工場は閉鎖された。往事、周辺の岡崎、夷川一帯には、琵琶湖疏水を利用した同様の水車及び水路は数多くあったが、ほぼ全て暗渠となり、原型をとどめる水車水路としては唯一のものとなっている。町工場による疏水の水力利用の歴史を伝えるものとして、産業遺跡としての保存運動が行われている。水路の他に、手前に工場跡の空き地、北側に住居家屋、周囲に従業者の住居等が残されている。また、南に少し下った水路脇にある三谷稲荷社は、水路と一帯の安全祈願のために祀られたものである。

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