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DoraNeko

東山から京の街を見下ろす白衣観音坐像がある、霊山観音でございます。ここは太平洋戦争の犠牲者の仏教式慰霊施設でございます。この裏手に吾輩の代々の墓がある霊山墓地があって、若かりし頃には来たことがあるんですが罰当たりな事に、今は何処がそうなのかさっぱりわからないという始末なんでございます。だからこんなになっちまったんでw

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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    霊山観音(りょうぜんかんのん、英語: Ryozenn Kannon)は、京都府京都市東山区にある観音像であり、太平洋戦争の犠牲者の仏教式慰霊施設である。太平洋戦争で没した約200万人の日本兵を慰霊するため、1955年(昭和30年)に帝産オート(現・帝産観光バス)社長の石川博資(1891-1965)によって建立された。元々この土地は旧陸軍が京都忠霊塔の建設を予定していたが、敗戦によって計画を主導していた第十六師団が消滅して頓挫したため、空地になっていた場所であった。1951年に石川が観音像建立の計画を立て、嵯峨野、広沢池、山科といった候補地の中から、1953年にこの地に決定した。当初は180尺(55 m)もの高さを計画していたが、景観への懸念から反対意見があり、現在の高さに変更した。1955年6月8日に開眼法要を行い、全国から約2万人の遺族がつめかけ、終日5万人の参拝客が足を運んだ。建設当初は「財団法人霊山観音会」が運営していたが、1957年2月9日に「宗教法人霊山観音教会」を設立し、財団法人から宗教法人へと移管している。宗派を超えて参拝しやすくするために単立としているが、宗教行事では臨済宗建仁寺派と高台寺の僧侶が勤めている。彫刻家の山崎朝雲によって原型が作成された白衣観音坐像で、高さ約24 m、総重量約500 tにも及ぶ。顔の部分だけでも6 mある。観音像の背後には「霊牌殿」があり、ここに戦死者の位牌が納められている。「霊牌殿」は観音像が建設される以前の1945年の時点で完成していたことが明らかになっている。

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