







羽越本線の中条駅前に建つ、板額御前の像でございます。鎌倉時代の女傑で、弓矢の名手だったと伝えられておりますですな。浄瑠璃や歌舞伎に登場する人物でごさいます。古来、女傑の代名詞として用いられる「巴板額」は巴御前と板額御前のことなんだそうですわ、知らんけど(←知らんのかいw)。
羽越本線の中条駅前に建つ、板額御前の像でございます。鎌倉時代の女傑で、弓矢の名手だったと伝えられておりますですな。浄瑠璃や歌舞伎に登場する人物でごさいます。古来、女傑の代名詞として用いられる「巴板額」は巴御前と板額御前のことなんだそうですわ、知らんけど(←知らんのかいw)。
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Wikipediaから引用
板額御前(はんがく ごぜん、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。名は『吾妻鏡』では「坂額」とされているが、後の古浄瑠璃などの文学作品では「板額」と表記されている。ほかに飯角とも。城資国の娘。兄弟に城資永、城長茂らがいる。日本史における数少ない女武将の一人で、古くから巴御前とともに女傑の代名詞として「巴板額」(ともえ はんがく)と知られてきた。城氏は越後国の有力な平家方の豪族であったが、治承・寿永の乱を経て没落、一族は潜伏を余儀なくされる。『吾妻鏡』の建仁元年(1201年)には、越後国において板額の甥に当たる城資盛(資永の子)の挙兵が見える(建仁の乱)。これは板額の兄の長茂(資茂とも)の鎌倉幕府打倒計画に呼応したものであり、長茂自身は程なく京において討ち取られるが、資盛は要害の鳥坂城に拠って佐々木盛綱らの討伐軍を散々にてこずらせた。板額は、反乱軍の一方の将として奮戦した。『吾妻鏡』では「女性の身たりと雖も、百発百中の芸殆ど父兄に越ゆるなり。人挙て奇特を謂う。この合戦の日殊に兵略を施す。童形の如く上髪せしめ腹巻を着し矢倉の上に居て、襲い到るの輩を射る。中たるの者死なずと云うこと莫し」と書かれている。しかし最終的には藤沢清親の放った矢が両脚に当たり捕虜となり、それとともに反乱軍は崩壊する。板額は鎌倉に送られ、2代将軍・源頼家の面前に引き据えられるが、その際全く臆した様子がなく、幕府の宿将達を驚愕せしめた。この態度に深く感銘を受けた甲斐源氏の一族で山梨県中央市浅利を本拠とした浅利義遠(義成)は、頼家に申請して彼女を妻として貰い受けることを許諾された。その後、一男一女をもうけたという。板額は義遠の妻として甲斐国に移り住み、同地において生涯を過ごしたと伝えられている。義遠が本拠とした山梨県中央市浅利に近い笛吹市境川町小黒坂には板額御前の墓所と伝わる板額塚がある。生誕地とされる熊野若宮神社(新潟県胎内市飯角)には、2001年(平成13年)板額御前奮戦800年祭(鳥坂城奮戦800年を記念)が開かれた際、旧中条町によって石碑が建てられている。