新神戸駅から三宮までの、フラワーロード付近。


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コメント一覧 (1件)

  • 宝塚に本社がある会社の東京営業所勤務だったころに、社長のお気に入りだったんでお土産はいつもここのお菓子でしたよ。

    -フロインドリーブの歴史-
    早くに両親と弟を亡くした初代ハインリッヒフロインドリーブは、14歳でパン屋の見習いとして働き始め、18歳からはベーカーとして10年間ドイツ海軍に従事しました。30歳を過ぎた頃、徴兵により軍隊に復帰。第一次世界大戦中に日本軍の捕虜となり、日本で迎えた終戦の翌年には敷島製パン株式会社の初代技師長に就任しました。本社工場の設計をはじめ、1921年まで技術面の全ての指揮を任されていたとされます。
    1階の一部がフロインドリーブ
    1924年、40歳の時に日本の妻ヨンと2人で神戸の中山手に「フロインドリーブ」を開店。本格的なドイツパンを日本に広めたとされる夫婦の歩みは、後にNHKの連続テレビドラマ「風見鶏」のモデルとなり、全国にその名が一気に広がりました。お店の営みは順風満帆でしたが、第二次世界大戦中には神戸大空襲により、店舗が入っていた建物が全焼するという事態に見舞われます。失意の中、隣接地に土地を借り、終戦の翌年にやっとの思いでお店を再開しました。
    二代目ハインリッヒ・フロインドリーブ
    その後1951年に、ドイツで製菓を学び、マイスターの資格を取得した息子ハインリッヒ2世が日本に帰国し、2代目社長に就任。初代から受け継いだパンに加え、パイやクッキーなどの洋菓子にも力を注ぎ、お店の経営は次第に回復しました。時を経て1990年にはヘラ・フロインドリーブが3代目として代表取締役に就任。経営も安定し、再度順調な軌道に乗ったと思われた5年後、阪神淡路大震災が発生し、店舗も工場も甚大な被害を受け休業状態に。しかしながら、お店の再開を願う多くの皆様の寄せ書きに励まされた社長が奮起し、そのような状況下でも5ヶ月あまりで営業再開を果たしました。ただ、一応に再開はしたものの、全壊の指定を受けた店舗での営業は困難を極めました。
    三代目ヘラ・フロインドリーブ上原
    思案を重ねていた折に目に留まったのが、ヘラ社長夫妻が結婚式を挙げた思い出深い場所でもある旧神戸ユニオン教会でした。1999年に店舗・工場を現在の生田町に集約、現在では元教会の神秘的な雰囲気の中で、伝統ある自慢のパンを使用したサンドウィッチをお召し上がりいただけるカフェもオープンし、連日ご好評いただいております。

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