食い込みっぷり、お見事なりっ、錦天満宮の鳥居。

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新京極および錦市場を訪れる観光客の何割がコレに気付いてるか知らんがね、錦天満宮の鳥居さんは上部が両サイドともに建物に食い込んでしまっているのね。なんでこんなことになってんの?ってのは色々書かれたモノがあるんで詳しくは割愛。結局のところ行政の怠慢が主たる要因ってことのようなんだけどね。でも、ある種の観光名所にもなっちゃってるから結果オーライってことなんですかねぇ。

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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    錦天満宮(にしきてんまんぐう)は、京都市中京区錦小路通新京極にある神社。天満天神(菅原道真)を祀る。京の台所として知られる錦市場の東の端にあり、学業に加え商売繁盛も御利益に謳われている。長保5年(1003年)、菅原道真の父親である菅原是善の旧邸菅原院跡地にあった歓喜寺を源融の旧邸・六条河原院の跡地に移築し、その鎮守社として天満天神を祀った天満宮として創建されたのに始まる(菅原院の地には菅原院天満宮神社が建てられる)。正安元年(1299年)には時宗六条派本寺の善導寺が当地に移転し、元々あった歓喜寺を合併して六条道場・歓喜光寺と名称を改めた。その際、天満宮はそのまま鎮守社とした。応仁の乱の後、寺・宮ともに高辻烏丸(現・京都市下京区)に移転したが、天正15年(1587年)には豊臣秀吉の都市計画のため、歓喜光寺とともに錦小路東端(新京極通り四条上る)の現在地に移転した。それによって所在地名から「錦天満宮」と呼ばれるようになった。1872年(明治5年)には神仏分離令によって錦天満宮が独立するが、歓喜光寺はその後1907年(明治40年)、東山にあった法国寺と合併し、その所在地である東山区に移転(1975年(昭和50年)にはさらに山科区に移転)し、当社だけが当地に残された。錦小路通の寺町と新京極の間にある鳥居は1935年(昭和10年)に建てられたものであるが、その後に設計ミスがある(鳥居上部の両端を考慮せずに柱の位置だけで道路幅を決めてしまった)区画割りを元に両側にビルが建てられたため、ビルの中に一部がめり込んでいる。参道からもビルの窓を通してめり込んだ先端を覗くことができる。社務所前に「からくりみくじ」がある。人が近づくと神楽が鳴り出し機械仕掛けの獅子舞がはじまり、硬貨を投入して御籤(みくじ)の種類(英文、和英対訳、子ども用など六種類)を選ぶと、神楽に合わせて獅子が舞いながら御籤を届ける仕掛けが人気となっている。

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