葉がくれ恵比須っておっしゃるのだそうです。

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DoraNeko

バスに乗ろうと佐賀バスセンターに向かいましたらば、手前っかわになにやらいらっしゃいましたのが、この「葉がくれ恵比須」さん。なんだかよく分からないので調べてみたところ、佐賀市内には様々なところにこういった恵比須さんが鎮座しているんだそうです。少なくとも10体以上はあるらしいのですが、そんなの捜し歩くほど酔狂じゃあないので「ふ~ん」程度なのですが。まあ、見つけたら何かご利益ありそうですもんね。あ、コロナ感染防止対策アピールですな、やっぱりマスク付けてますわ。

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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    えびすは日本の神で、現在では七福神の一員として日本古来の唯一(その他はインドまたは中国由来)の福の神である。古くから漁業の神でもあり、後に留守神、さらには商いの神ともされた。夷、戎、胡、蛭子、蝦夷、恵比須、恵比寿、恵美須などとも表記し、えびっさん、えべっさん、おべっさんなどとも呼称される。えびす神社にて祀られる。日本一大きいえびす石像は舞子六神社に祀られており、商売繁盛の神社とされている。「えびす」という神は複数あり、イザナギ、イザナミの子である蛭子命(ひるこのみこと)か、もしくは大国主命(大黒さん)の子である事代主神(ことしろぬしかみ)とされることが多い。少数であるが、えびすを少彦名神や彦火火出見尊とすることもある。また、外来の神とされることもあり、「えびす」を「戎」や「夷」と書くことは、中央政府が地方の民や東国の者を「えみし」や「えびす」と呼んで、「戎」や「夷」と書いたのと同様で、異邦の者を意味する。このように多種多様の側面があるため、えびすを祀る神社でも祭神が異なることがある。「えびす」の最初の記録は平安時代末期の『伊呂波字類抄』(三巻本)である。そこには広田神社の末社として10社が列記される中に「夷 毘沙門」「三郎殿 不動明王」の2社があり、夷と三郎はまったく別の神であった。少し時代が下がって鎌倉時代初頭の『諸社禁忌』には「衣毘須 不動」「三郎殿 毘沙門」とあり、両者の本地仏が入れ替わっているが、これはどちらかが単なる誤りなのか、新説として後から修正されたということなのか、もとから両説が併存していたのかはわからない。が、次第に両者が混同されて「夷三郎」という神格ができていく過程が窺われる。この広田神社の末社という2社が統合されたのが現在の西宮神社の前身と考えられている。また、これらの記述から、初期にはその本地仏は毘沙門天や不動明王とされていたことがわかる。古代では「荒々しい神」として信仰されていたのである。えびすの本来の神格は人々の前にときたま現れる外来物に対する信仰であり、海の向こうからやってくる海神である。平安時代末期にはえびすを市場の神(市神)として祀った記録が残っており、鎌倉時代にも鶴岡八幡宮境内で市神としてえびすを祀ったという。このため、中世に商業が発展するにつれ商売繁盛の神としての性格も現れたとされる。同時に福神としても信仰されるようになり、やがて七福神の1柱とされる。福神としてのえびすは、ふくよかな笑顔(えびす顔)で描写されている。

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