吉川広嘉公は、江戸時代前期の周防国岩国領3代領主。

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錦帯橋を渡り、吉香公園の方へ歩を進めると、岩国城の山を背にして錦帯橋を望んでおられる方の像が立っておりますですね。吉川広嘉さんと仰るのだそうです。きっかわひろよし、と読むのだそうですな。

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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    吉川 広嘉(きっかわ ひろよし)は、江戸時代前期の周防国岩国領3代領主。元和7年(1621年)7月6日、第2代領主・吉川広正の長男として萩に生まれる。寛永元年(1624年)に、証人(人質)として江戸に上り、寛永7年(1630年)に将軍徳川家光に御目見した。同年、弟の千若(吉川就紀)が証人となり、帰国した。寛永11年(1634年)に萩で元服し広佳と名乗った。正保2年(1645年)4月には改名して広純を名乗る。寛文3年(1663年)8月28日、父の隠居により家督を継ぐ。生来病弱であったため京都で療養し、諸学と京風を身に着け、狩野探幽等とも交流があり、後年の錦帯橋架橋にも繋がる人脈を構築した。領主としての治績は、瀬戸内沿岸二千町歩を干拓し耕地を拡大したこと、領札を発行したことがある。最大の治績は、延宝元年(1673年)、同2年(1674年)と連年錦川に架橋工事を行い、現在の形の錦帯橋を架橋したことである。特に延宝2年の架橋工事は緻密を極め、橋は以後第二次世界大戦後にキジヤ台風で崩壊・流失するまで一度も流失しなかった。延宝7年(1679年)8月16日に死去した。享年59。長男・広紀が跡を継いだ。

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