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words=’1983年(昭和58年)に廃止された妻沼線こと東武熊谷線でございますが、実際に乗車したことはないんですが熊谷駅構内でキハ2000形を見かけたことは何度もございましたのです。当時妻沼に用事もなかったし乗る機会がないままに廃止を迎えたのでございました。西小泉まで繋がってるならまだしも東武では完全に盲腸線でしたからね、しかも非電化路線でしたしね。そのうち熊谷駅も高架になったり、挙句に新幹線が開通したりと激変するうちに東武熊谷線の痕跡も跡形もなくなってしまったようで。近年になって、熊谷市立妻沼展示館にキハ2002が保存されて公開されていることを知りましてね。今回訪れている群馬県内から刀水橋を渡って見に来ましたよ。妻沼駅跡のすぐそばなんですね。’
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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    熊谷線(くまがやせん)は、埼玉県熊谷市の熊谷駅から大里郡妻沼町(現・熊谷市)の妻沼駅までを結んでいた東武鉄道の鉄道路線。地元では妻沼線(めぬません)とも呼ばれていた。もともと軍の命令で建設された路線で、第二次世界大戦末期に、群馬県太田市の中島飛行機(現・SUBARU)への要員・資材輸送を目的として、熊谷駅 – 東武小泉線の西小泉駅間の建設が計画され、第一期工事区間として1943年(昭和18年)12月5日に熊谷駅 – 妻沼駅間が開業した。なお、免許は東小泉駅(起点) – 熊谷駅間となっている。開通当初は、館林機関区所属の蒸気機関車B2型27・28号機牽引で運転されていた。熊谷駅 – 妻沼駅間は工員輸送しか行われず、資材輸送は行われなかった。日夜を違わずピストン輸送が行われ、妻沼駅から工場までの連絡は東武バスによって刀水橋を経由して行った。妻沼駅に着いた列車からバスへの乗り換えがうまくいかないと憲兵が飛んできたそうである。また熊谷線は米軍機による被害はいっさい出さなかったが、乗務員は乗客を守るために米軍機を見つけると木立の陰に列車を停車させ隠すなどしていた。終戦後は工員輸送も終わり、利用者の比較的少ない熊谷線は本線よりも低質な石炭をまわされたため、高崎線とのオーバークロスで蒸気機関車の蒸気圧が上がらないために勾配を登るのが大変で低速運転となり「埼玉県立熊谷商業高等学校の生徒たちはあまりに遅いので列車を飛び降り、土手を下って学校に行ってしまった」という話も聞かれた。後にはやや改善したものの、その鈍足ぶり(熊谷 – 妻沼間10.1キロを24分)から、沿線乗客には揶揄混じりの「のろま線のカメ号」「カメ」と呼ばれていた。1954年(昭和29年)に旅客列車の無煙化を図り、3両導入した東急車輌製の気動車キハ2000形は17分で走破し、またその姿から「特急カメ号」という呼び名で親しまれた。しかしその後「特急」の部分が取れてしまい、「カメ号」に戻った。末期はほぼ毎時1本の運転(最終は下り21時台)であり、平日朝夕など混雑時はキハ2000形気動車2両編成、そのほかの閑散時は単行。大幡駅にあった交換設備も撤去され、全線1閉塞となっていた。終点妻沼駅には「杉戸機関区妻沼派出所」が置かれていた。1983年(昭和58年)6月1日 – 熊谷 – 妻沼間廃止。

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