大串貝塚ふれあい公園と埋蔵文化財センター。













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words=’大串貝塚ふれあい公園として整備されている大串貝塚周辺の公園でございます。その一角にある埋蔵文化財センター、この建物がまた面白いですな。あざといほどに遺跡感を演出した建物でございますw その遺跡感って西洋の遺跡ですがなw その感覚が斜め上なんで逆に面白がっている拙者でございます。’
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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    大串貝塚(おおぐしかいづか)は、日本の茨城県水戸市塩崎町1064-1に所在する縄文時代前期の貝塚である。『常陸国風土記』に巨人伝説の地「大櫛之岡」として言及されており、これは縄文時代(石器時代)の貝塚(遺跡)が古文献に記された最古の例として知られる。遺跡の平坦部分は削平されているが、斜面の貝層部分は1970年(昭和45年)5月11日付で国の史跡に指定されており「大串貝塚ふれあい公園」として整備されている。北関東東端部、太平洋に注ぐ那珂川下流右岸に所在する。那珂川の支流で、市域を東流して太平洋へ注ぐ涸沼川は、縄文時代前期には河口から涸沼方面へ向かって入江状に広がっていたと推測されており、本貝塚はその北岸標高25.6メートルの那珂台地の突端に位置する。涸沼川を挟んで対岸の磯浜地区には、日下ヶ塚古墳(常陸鏡塚古墳)や磯浜車塚古墳などからなる磯浜古墳群が分布する。またこれらの古墳と大串貝塚の中間には律令制の交通拠点「平津駅家(ひらつのうまや)」があり、古より水上交通の要所であったと推測されている。大串貝塚は、塩ヶ崎貝塚(しおがさき かいづか)とも大串丘貝塚とも呼ばれていたことがあって、学会に知られるようになったのは、1885年(明治22年)の頃からである。その後も小規模な発掘はあるが、遺跡全体を対象とする調査は行われていない。1936年(昭和11年)田沢金吾・大場磐雄らにより調査された。1943年(昭和18年)の発掘調査では、ヤマトシジミ、マシジミ、ハマグリ、アサリ、カキ、アワビ、サザエなど、出土した貝類は淡水産と海産が混在しているから、入江状地形に川が流入するような土地に臨んでいたと考えられている。戦後は1950年(昭和25年)日本考古研究所の酒詰仲男・広瀬栄一らが調査し、縄文時代前期の花積下層式土器が出土する貝塚であることが明らかにされた。花積下層式と関山式に属する土器が出土した。1985年(昭和60年)の発掘で石鏃・貝輪・貝刃・ヤス・釣針などの骨角器や貝類、スズキ・タイ・フグなどの魚類、イノシシ・シカなどの獣骨が検出されている。

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