小田原駅東口の目立たない場所に存在する、二宮尊徳先生幼時之像。




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words=’昔は日本国中津々浦々何処の学校にも存在した二宮金次郎の像でございますが、何故か最近では無くなってしまいつつあるのでございますね。小学校の道徳の授業時間とかに習ったものでしたが、その道徳なんてものも死語ですか。道理で自己中だらけの社会になる訳だわ。なんて言いたくなるジジイでございますよ、ええ。’
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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    二宮 尊徳(にのみや そんとく)は、江戸時代後期の経世家、農政家、思想家である。自筆文書では金治郎(きんじろう)と署名している例が多いが、一般には「金次郎」と表記されることが多い。また、諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と読むが、「そんとく」という読みで定着している。経世済民を目指して報徳思想を唱え、報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を指導した。相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山(かやま))に、百姓二宮利右衛門の長男として生まれる。母は曽我別所村・川久保太兵衛の娘・好(よし)。尊徳の弟には二宮三郎左衛門の養子・友吉(常五郎)と富治郎がいる。尊徳は、まず堀之内村の中島弥三右衛門の娘・きの(キノ)を妻とするが、離縁。次いで20歳若いが貞淑温良な飯泉村の岡田峯右衛門の娘・なみ(波子)を娶った。後者は賢夫人と称される。子息は、きのとの間に長男の徳太郎がいたが夭折しており、なみとの間に、嫡男の尊行(弥太郎)、長女ふみ(富田高慶室)。

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