通りすがりの、壷屋陶芸センター。

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words=’せっかく那覇まで来たので、壺屋やちむん通りを散策することに致しました。那覇市壺屋地区は壺屋焼の生産地でございます。壺屋焼は概ね荒焼と上焼に分類され、荒焼は備前焼のように南蛮焼の系統を汲むもの、上焼は絵付がされる大陸渡来系のものだということです。壷屋陶芸センターの説明板にも書かれておりました。’
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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    壺屋焼(つぼややき)は沖縄県那覇市壺屋地区及び読谷村その他で焼かれる沖縄を代表する陶器の名称。登り窯を中心に灯油窯やガス窯なども用いながら伝統の技術と技法を受け継いでいる。1682年、尚貞王の時代に、湧田窯、知花窯、宝口窯の三カ所の窯を牧志村の南(現・壺屋)に統合して、新しい窯場が誕生した。これが現在の壺屋(つぼや、琉球方言でチブヤ)焼の草創である。その後、壺屋焼は琉球随一の窯場となり、その製品は国内消費や交易に利用された。また、琉球使節の「江戸上り」の際、将軍や幕府首脳への献上品である泡盛を入れる容器としても用いられた。江戸時代に大名の江戸屋敷が密集していた汐留遺跡の発掘の際に、伊達氏の屋敷跡と推定される地区から壺屋焼の徳利が出土している。また、幕末の風俗を記した『守貞謾稿』にも江戸や京都・大坂で荒焼徳利に入った泡盛が市中で売られていたことが記されており、それを裏付けるように各地の近世遺跡で壺屋焼が出土している。ただし、研究者の間でも「壺屋焼」の存在自体が知られておらず、「備前焼」「南蛮焼」として博物館などに展示されている例があるとの指摘(小田静雄)もある。壺屋焼は大きく分けて、「荒焼」と呼ばれる南蛮焼の系統を汲むものと、「上焼」と呼ばれる大陸渡来系の絵付がされるものがある。

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