南海本線の七道駅にある、河口慧海像でございます。




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words=’七道駅のロータリー広場にある河口慧海像でございます。明治時代に当時鎖国中であったチベットに単身で渡り、チベット仏教の経典を日本に持ち帰った僧侶でございます。滅茶苦茶アグレッシブなお方でございますですな。’
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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    河口 慧海(かわぐち えかい、1866年2月26日(慶応2年1月12日) – 1945年(昭和20年)2月24日)は、日本の黄檗僧、仏教学者、探検家。幼名は定治郎。僧名は慧海仁広(えかいじんこう)。チベット名はセーラブ・ギャムツォ。チベットでの通称はセライ・アムチー。日本や中国の漢語仏典に疑問をおぼえ、仏陀本来の教えの意味が分かる書物を求めて、梵語原典やチベット語訳仏典の入手を決意し、日本人として初めてチベットへの入国を果たした。『西蔵旅行記』『在家仏教』をはじめとして数多くの著作を残し、慧文社から著作選集も出版されている。1866年(慶応2年)、摂津国住吉郡堺山伏町(現・大阪府堺市堺区北旅籠町西3丁)生まれ。父は川口善吉、母の名は常子、父の善吉は桶樽を家業とする職人であった。6歳から寺子屋清学院に通い、その後は明治時代初期に設置された泉州第二番錦西小学校へ通学した。12歳から家業を手伝いつつ、その傍らで14歳から夜学へ通学した。その後、藩儒であった土屋弘の塾へ通学して漢籍を5年間学び、米国宣教師から英語などの指導を受けた。1886年(明治19年)、京都の同志社英学校に通学を始めるが、学費困窮から退学し、同年堺市に戻り、再び土屋と米国人宣教師のもとで学んだ。1888年(明治21年)に宿院小学校の教員となったが、更に学問を修めるべく翌年に上京、井上円了が東京市に創設した哲学館(東洋大学の前身)で外生として苦学した。1890年(明治23年)に黄檗宗の五百羅漢寺(当時は東京本所にあった)で得度し、同寺の住職となる。1892年(明治25年)3月、哲学館の学科終了に伴い住職を辞す。同年4月から大阪妙徳寺に入り、禅宗を学ぶ傍ら一切蔵経を読む。その後、五百羅漢寺の住職を勤めるまでになるが、その地位を打ち捨て、梵語・チベット語の仏典を求めて、鎖国状態にあったチベットを目指す。数々の苦難の末、2度のチベット入りを果す。帰国した後、1921年(大正10年)に還俗する(その理由については自身の著書『在家仏教』に詳しく記されている)。

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