地下線入口扁額・新京阪西院地上駅跡(京都市)

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DoraNeko

阪急京都線の前身、新京阪鉄道が高槻町駅から延伸し、終着駅で地上駅である京都西院駅が開業したのは1928年(昭和3年)のことでございますそうで。当時の駅跡は駐輪場になっておりますが、面影をいくらか残しております。四条通の地下を通る地下線トンネルが開通し、現在の大宮駅である新京阪京都駅まで延伸したのは1931年(昭和6年)、わずか3年後のことでございますね。地下線入口には扁額「天人併其功」と鷲のレリーフが誇らしげに掲げられております。「天人併其功」とは「天の力と人の力が合わさって成し遂げられた」という意味でございます。鷲のレリーフは運行の安全を見守っているとされているのだそうですな。

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  • Wikipediaから引用
    新京阪鉄道(しんけいはんてつどう)は、京阪電気鉄道が設立し京都府・大阪府に路線を有していた鉄道会社。現在の阪急京都本線系統にあたる鉄道路線を建設した。京阪電気鉄道系の会社として、淀川西岸における新路線の敷設を行うために設立された。1918年(大正7年)、淀川西岸への支線建設を計画し、敷設特許申請を行った京阪電気鉄道は、京阪本線の改良工事と比較し、遥かに迅速かつ安価で効果的であるとの判断から、京都までの新線として一挙に敷設し、相乗効果により京阪本線の輸送力向上工事にも弾みをつけることを目的として申請を変更した。敷設を行うための子会社として新京阪鉄道を設立、準拠法を軌道法から地方鉄道法とし、特許から切り替えた免許が譲渡された。当初は桜ノ宮仮駅を起点とし、のちに梅田まで開業(京阪梅田線)する予定であったが、当時の城東線の輸送力に配慮して計画が変更され、十三駅 – 淡路駅 – 千里山駅間の路線を所有していた北大阪電気鉄道を買収し、同社の所有していた免許を利用して天神橋筋六丁目(天六)に大阪方起点を設けることとした。完成した天神橋駅(現天神橋筋六丁目駅)にはターミナルビルとして、新京阪ビルディング(後の「天六阪急ビル」:2010年に解体)を設けた。これはアメリカのパシフィック電鉄などのインターアーバンのターミナルに範を取った、プラットホームを2階に設ける電鉄駅内蔵型高層ビルの日本における嚆矢となる、当時としては破格の高層建築物である。このビルと、ここから新淀川橋梁直前まで続く鉄筋コンクリート造の高架橋のコンセプトや基本設計は、以後日本で開業することになる第2世代の都市間高速電車群の路線計画に多大な影響を与えた。また、京都側では地下線によって市内に乗り入れる予定であったが、工事には時間と多大な費用を要すること、そして昭和天皇即位大典が京都御所で催されることになっていたことから、暫定的に市の外れ、当時葛野郡西院村(1931年に京都市右京区へ編入)に駅を設置し、ここから京都市電・市バスなどで市街地へアクセスさせることにした。1928年、天神橋 – 西院間を開業させ、1930年に、京阪電気鉄道に吸収合併された。京阪本線と新京阪線の相乗効果を一層高めるとともに、和歌山地区の電力供給部門・軌道部門の合同電気株式会社への譲渡と合わせ、蒲生信号所 – 守口(現・守口市)間複々線化工事の原資とした。1931年には西院から京阪京都駅(現・大宮)までの地下線による延長が完成した。さらに、名古屋急行電鉄として名古屋までの路線延長が計画されていたが、これは昭和恐慌の影響で立ち消えとなった。新京阪鉄道では、車両は当時の最高水準を実現していた。特に1927年から製造した「6番目の旅客車両形式 Passenger car 6」を意味するP-6形電車は、全長19m・重量52t・出力800馬力という、当時日本で最大最強の高速電車であり、最速の「超特急」で天神橋-京阪京都間を34分(表定速度75.3km/h)で結んだ。また国鉄東海道本線の特急「燕」を並行区間で追い抜いたという逸話で知られる。新京阪鉄道の沿線は人口過疎地域であったため、都市間輸送に重きを置いたことが、このような高性能電車を生む結果となった。戦中の1943年には京阪電気鉄道と阪神急行電鉄が合併し、京阪神急行電鉄(阪急、1973年に阪急電鉄と改称)となった。しかし戦後の1949年に行われた役員会において、旧京阪側は合併前の状態へ戻すことを主張したのに対し、旧阪急側は1944年(昭和19年)から開始された新京阪線電車の阪急梅田駅乗り入れ実績を踏まえ、新京阪電鉄を阪急側の所属路線とすることを主張した。新京阪線が淀川の両岸に路線を持つことによる相乗効果を狙って建設されたこと、旧阪急系役員の頭数の多さによる旧京阪系役員の劣勢から結果的に新京阪線は阪急側へ収奪されることとなり、それらは阪急京都本線・阪急千里線・阪急嵐山線となった。

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