帰巣本能が働いたんでやって来ました、京都市立朱雀中学校です。







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words=’吾輩の母校、朱雀中学校です。先輩に裸の大将放浪記シリーズの山下清役で著名な芦屋雁之助さんがいらっしゃいますな。実はそのことは知らなかったんですけれどw 入学した頃は至極フツーのおとなしめの少年でございましたが、卒業するころには至極フツーのワルガキと化した吾輩でございます。なのでロクなことしていない思いでしかございませぬw’
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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    芦屋 雁之助(あしや がんのすけ、1931年5月29日 – 2004年4月7日)は、日本の俳優、歌手。本名、西部 清(にしべ きよし)。愛称は、雁ちゃん。京都府京都市出身。京都市立朱雀中学校卒業。実家の家業は京都で友禅染の染物屋を営んでいたが、芸事、道楽事が好きであった父は戦後、「若松家」の亭号を名乗り、芸人として活動し始めるばかりか、一座を組んで巡業の日々となる。清は父について芸をこなしながら、一時、漫才師・五條家弁慶の弟子となり、前座として中国の服を着て手品をしたり師匠と漫才や芝居の舞台に立った。その後、18歳の時に弟・秀郎と当時人気の漫才師、芦の家雁玉・林田十郎に弟子入りし、「雁之助(清)・小雁(秀郎)」の名をもらう[2]が、弟子入りしてまもなく亭号「芦の家」を勝手に「芦屋」に変えたため破門される(後に活躍が認められ破門を解かれる)。その後京都の京都新京極の富貴、大阪の戎橋松竹中心に活躍、「若手漫才の有望株」といわれ将来を嘱望されるが、3、4年間コンビで活動したところで、演劇評論家の武智鉄二の勧めで突然漫才をやめ、1954年、開場した「OSミュージックホール」に入り、座付作者の花登筐のコントを演じるようになる。以来、花登にすすめられ、兄弟で喜劇役者に転身する。1959年、花登が東宝から独立して結成した『劇団・笑いの王国』に大村崑らと参加。劇団の主軸を支える。同年3月にスタートした毎日放送の公開コメディー番組『番頭はんと丁稚どん』で、薬屋の番頭を演じ、「強面で下の者には厳しい半面、裏に回ると『女性(今で言うところの「大阪のおばちゃん」、ただし当時はこの言い方はなかった)口調』を使い、女性的な仕草を見せるキャラクター」で人気を集める。主なギャグに「いやいやっ、もの凄いこと言わはる」、「いやっ!えらいとこ見つかってしもうた」、「わてが雁之助だんねん」などがある。1960年3月1日、大村、小雁とともに、当時としては極めて珍しい3組合同による『テレビ結婚式』を挙げている。最初の結婚相手は元・OSミュージックのダンサー・夏丘梨枝だったが、その後離別している。1963年、劇団内では「人気の崑、実力の雁之助」という図式の下、2枚看板が成立していたが、雁之助は主演舞台を評価されながらも2番手に甘んじている事など自身の処遇に対する不満などから、主宰者の花登、座長の大村から距離を置くようになり、弟の芦屋小雁、芦屋雁平や花登に不満を抱く一部座員もこれに追従し始める。こうした事がやがて劇団内の軋轢となり、雁之助は舞台にスッピンのままで出るなど傍目にも花登への猜疑心を露わにするようになっていく。加えて「元・宝塚娘役」、「主宰者の妻」というプライドから看板女優の座に居座る由美あづさの横暴、孤立化する座長・大村など、座員間の不協和音が次第に表面化していく。1964年、花登は劇団解散を決め、西部兄弟らは花登の下を離れる。1964年、小雁らとともに劇団「喜劇座」を旗揚げ。座付き作家であった藤本義一から、風貌が画家の山下清に似ている事を指摘され、それをヒントに藤本が舞台劇『裸の大将放浪記』を書き上げ、初演。評判となる。1969年、劇団解散。その後は活動拠点を東京に移し、喜劇だけでなく、本格的な演技派俳優として、活動の幅を広げる。1976年、人気時代劇「必殺シリーズ」の『必殺からくり人』で山田五十鈴と共演。1977年には同じく関西喜劇出身で、必殺シリーズレギュラーだった藤田まことが旗揚げした「新演技座」に発起人として名を連ね、一時在籍している。1979年、森光子と共演した舞台『おもろい女』で芸術祭大賞を受賞、代表作の1つとなり舞台での活動も精力的に行った。その一方で関西での喜劇舞台も継続、兄弟共演やミヤコ蝶々、かしまし娘らと共演している。1980年『裸の大将放浪記』(関西テレビ・フジテレビ系『花王名人劇場』→『花王ファミリースペシャル』)で、かつて評判だった山下清役をテレビで再び演じることとなり、これ以降の当たり役となった。1984年に発売した、演歌歌手としてのシングル『娘よ』が150万枚を超える(オリコンでは約80万枚)大ヒットとなり、同年末の『第35回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たす。大阪制作・全国ネットのドラマにも多く出演した。この年『佐渡島他吉の生涯』と『裸の大将放浪記』で第10回 菊田一夫演劇賞を受賞。

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