東西線竹橋駅の上、大手濠緑地にある和気清麻呂像でございます。

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威風堂々とした像でございますな。道鏡の野望を打ち砕いて皇統を護った忠臣として知られているお方でございます。現在の岡山県和気町出身、平安京への遷都を進言、建都事業に尽力、などなど幾多の功績のある和気清麻呂でございます。吾輩、京都で生まれ東京で暮らし、現在は岡山に在住しておりますので何かしらご縁があるんですかね?え?そんなのカンケーねえ?そんなワケねえ?こりゃまた失礼仕ったでごんす。

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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    和気 清麻呂(わけ の きよまろ)は、奈良時代末期から平安時代初期にかけての貴族。磐梨別乎麻呂(または平麻呂)の子。備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)出身。天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱では孝謙上皇側に参加したらしく、天平神護元年(765年)正月に乱での功労により勲六等の叙勲を受け、3月には藤野別真人から吉備藤野和気真人に改姓している。右兵衛少尉を経て、天平神護2年(766年)従五位下に叙爵し、近衛将監に任ぜられるとともに特別に封戸50戸を与えられた。天応元年(781年)桓武天皇が即位すると、一挙に四階昇進して従四位下に叙せられる。清麻呂は庶務に熟達して過去事例に通暁していたことから[3]、桓武朝において実務官僚として重用されて高官に昇る。延暦2年(783年)摂津大夫に任ぜられ、延暦3年(784年)従四位上に昇叙されるが、摂津大夫として以下の事績がある。 延暦4年(785年)には、神崎川と淀川を直結させる工事を行い平安京方面への物流路を確保した。その後、延暦7年(788年)にのべ23万人を投じて上町台地を開削して大和川を直接大阪湾に流して、水害を防ごうと工事を行ったが費用がかさんで失敗している(堀越神社前の谷町筋がくぼんでいるところと、大阪市天王寺区の茶臼山にある河底池はその名残りとされ、「和気橋」という名の橋がある)。清麻呂は桓武朝で実務官僚として重用されて高官となる。山背国葛野郡宇太村を選んで平安遷都の建設に進言し延暦12年(793年)自ら造営大夫として尽力した。 清麻呂は摂津大夫を務める傍ら、民部大輔次いで民部卿を務め、民部大輔・菅野真道とともに民政の刷新を行うとともに、『民部省例』20巻を編纂した。延暦7年(788年)には中宮大夫に任ぜられて皇太夫人・高野新笠にも仕え、その命令を受けて新笠の出身氏族和氏の系譜を編纂し『和氏譜』として撰上し、桓武天皇に賞賛されている。さらには、延暦3年(784年)の遷都後10年経過しても未だ完成を見なかった長岡京に見切りを付けて、山背国葛野郡宇太村を選んで平安京への遷都を進言するとともに、延暦12年(793年)には造宮大夫に任ぜられ、自身も建都事業に尽力した。この間の延暦9年(790年)正四位下、延暦15年(796年)には従三位に叙せられ、ついに公卿の地位に昇っている。延暦18年(799年)2月21日薨去。享年67。最終官位は従三位行民部卿兼造宮大夫美作備前国造。即日正三位の位階を贈られた。江戸時代末の嘉永4年(1851年)3月15日に孝明天皇は和気清麻呂の功績を讃えて神階正一位と護王大明神の神号を贈った。明治7年(1874年)神護寺の境内にあった清麻呂を祀った廟は護王神社と改称され別格官幣社に列し、明治19年(1886年)明治天皇の勅命により、神護寺境内から京都御所蛤御門前に遷座した。また、明治31年(1898年)3月18日には、薨後1100年を記念して、贈正三位から位階を進め、贈正一位とした。また、出身地の岡山県和気町には、和気氏一族の氏神である和気神社があり、和気清麻呂・和気広虫が祀られている。ゆかりの寺として実成寺もある。配流先とされる鹿児島県霧島市にも和気神社がある。清麻呂は楠木正成などとならぶ勤皇の忠臣と見なされることもあり、戦前には十円紙幣に肖像(想像図、キヨソーネの描いた木戸孝允の肖像画を修正したもの)が印刷された。日本銀行券の歴代の十円紙幣のうち、兌換銀券の旧券と戦後のA号券を除く6券種に採用されている。東京都千代田区大手町の大手濠緑地や、岡山県和気町の和気神社境内など、各地に銅像がある。

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