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長岡天満宮
四季のウツロイ ご由緒 当天満宮の御鎮座地長岡は、菅原道真公が御生前に在原業平と共に、しばしば遊んで詩歌管弦を
DoraNeko
長岡天満宮の境内でございます。吾輩は同じ阪急京都線沿線の西院駅付近で生まれ育ちましたが、ここに来たのは今回が初めてでございます。暑い中でしたのでササっと一周させてもらいましたが、見どころが沢山ありますな。石柱に書かれている「清廉潔白至誠一貫」は吾輩そのものですがな(←何?この大ウソつきメガw)。
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Wikipediaから引用
長岡天満宮(ながおかてんまんぐう)は、京都府長岡京市天神にある神社。旧社格は府社。市民からは「天神さん」と呼ばれ親しまれている。長岡京市はかつて山城国乙訓郡長岡と呼ばれ、延暦3年(784年)桓武天皇が平城京から都を移した長岡京が造営された所であり、長岡天満宮は都の西南の外れに位置している。文化事業の一環として4月下旬には「霧島コンサート」、8月下旬には「宵宮コンサート」が開催される。同コンサートはクラシックの生演奏に身近にふれる機会として、音楽好きの市民に親しまれている。現社地周辺は平安時代に菅原道真の所領であったとされ、道真が在原業平らと共にしばしば遊んで詩歌管弦を楽しんだ縁深いところであるという。 昌泰4年(901年)に道真が大宰府へ左遷された時、長岡に立ち寄り、「我が魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜しんだ。左遷の際道真に付き従ったのが、菅原氏の一族とされる中小路宗則であり、宗則は高槻まで同船し、帰り際に道真から道真自作の木像と念持仏を託され持ち帰り、道真の死後その木像を祀ったのが当天満宮の創立とされている。また、道真の大宰府左遷に付き従った中小路宗則は大宰府で過ごし、道真の死後に東小路祐房と共に道真自作の像と念持仏を持ち帰り、祠を建てて安置したことが始まりともいわれる。爾来皇室の崇敬篤く度々の寄進造営をうけた。寛永15年(1638年)には当社の東の地に領主であった八条宮智仁親王によって「八条ヶ池」が築造された。その後荒廃していたが、明治になり中興の祖である宮司の中小路宗城が境内や奉賛会の整備を行い復興、長岡天満宮は宗城の代に村社から郷社、さらに府社へと社格を上げることになった。一代で二度の社格昇格は極めて珍しい例である。その後1928年(昭和3年)には新京阪鉄道(現・阪急電鉄京都本線)が当社の名前を冠した長岡天神駅を開業させ、さらに賑わうこととなる。息子の中小路宗康も1941年(昭和16年)に平安神宮の旧本殿、祝詞舎、透塀を拝領し現在の境内がほぼ完成する。社地は元10万余坪に亘っていたが、明治維新に際し上地のため、現今は2万余坪を有している。現在の本殿は1941年(昭和16年)に京都の平安神宮の社殿(伊東忠太設計)を拝領移築したもので、正面の朱塗りの拝殿は「菅公御神忌1100年大萬燈祭」を奉賛して、既存の拝殿を増改築したものである(1998年秋竣工)。本殿への参道の途中にある弁天池の周辺は、回遊式庭園「紅葉庭園 錦景園」として近年整備された。10月9日に例祭が行われる。八条ヶ池には、檜で作られた水上橋があり、そこからは池を中心として境内を一望できる。八条ヶ池の中堤両側の樹齢百数十年のキリシマツツジは有名で、隣接する長岡公園の梅園も広く知られている。キリシマツツジの花の季節に開催される「春の観光まつり」の会場にもなっており、多くの観光客で賑わいをみせる。また、境内には竹林や梅林、あじさい園、桜、ハス、アヤメ・カキツバタ群落もあり四季折々の散策を楽しむことができる。2013年(平成25年)の年間参拝者数は694,000人。