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京都と大津を繋ぐ希望の水路 琵琶湖疏水|日本遺産ポータルサイト
日本遺産(Japan Heritage)ポータルサイトの京都と大津を繋ぐ希望の水路 琵琶湖疏水について。 千年以上にわたって日本の首都であった京都は,明治維新の東京
DoraNeko
蹴上疎水公園に建つ田邊朔郎博士像でございます。イケメンでございますな、そう思いません?そこの奥さん(←だから何処の奥さんかって聞いてるやんけw)。21歳で琵琶湖疏水の担当となった方で、「日本初の水力発電所の建設、関門海底トンネルの提言を行うなど、日本の近代土木工学の礎を築いた」という偉大な方でございますですよ。モテたやろね~たぶん。まるで若かりし頃の吾輩のように(←アホかw)。
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コメント一覧 (1件)
Wikipediaから引用
田辺 朔郎(たなべ さくろう、1861年12月2日(文久元年11月1日) – 1944年(昭和19年)9月5日)は、日本の土木技術者・工学者。工学博士。土木学会長。位階および勲等は従三位・勲一等。号は石斎を名乗る。琵琶湖疏水や日本初の水力発電所の建設、関門海底トンネルの提言を行うなど、日本の近代土木工学の礎を築いた。北海道官設鉄道敷設部長として北海道の幹線鉄道開発に着手し、狩勝峠の名づけを行った。明治10年に工部大学校(工学寮大学校より改称)に進み土木工学を専攻。在学中に、京都府知事・北垣国道が、遷都で疲弊した京都の活性化のために、角倉了以・角倉素庵時代からの長年の懸案だった琵琶湖疏水工事を天皇下賜金で断行することを知り、1881年(明治14年)に卒業研究として京都へ調査旅行に赴き、卒業論文「琵琶湖疏水工事の計画」を完成させる。のちに同論文は海外雑誌にも掲載され、イギリス土木学会の最高賞であるテルフォード賞を授与された。大鳥圭介工科大学校学長の推薦により、1883年(明治16年)に卒業と同時に京都府の御用掛に採用され、弱冠21歳で大工事である琵琶湖疏水の担当となる。工事途中の1888年(明治21年)に議員の高木文平とともに渡米し、ダムや運河の水力利用で世界的な製紙の町となったホルヨーク (マサチューセッツ州)や世界初の水力発電を実現したアスペン鉱山を視察し、当初予定の水車動力を水力発電に変更し、蹴上発電所を創設。この変更は、のちの京都の近代産業化に大いに寄与した。1890年(明治23年)の第一疏水完成後、帝国大学工科大学(工部大学校より改称)の教授に任命されて帰京。同年、榎本武揚の媒酌で北垣の長女静子と結婚。北海道庁長官に就任した北垣の要請で、北海道全道に1000マイル(約1600km)の幹線鉄道敷設計画の調査に着手し、計画・建設に携わる。墓所は京都市左京区大日山墓地と青山霊園(田辺太一と同墓)。