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DoraNeko整理札を首から掛けて見学順路に従って京都御所を見学させていただいております。御所内に入った経験は、ワタクシ幼い頃にもないはずなのでございます。ひょっとしたら小学生の頃に学校行事か何かであったのかも知れないんですけれど、記憶にはありません。次は御学問所でございます。和歌の会など学芸関係の場として使われたり、臣下と対面される行事でも使われたそうで、明治天皇が「王政復古の大号令」を発せられた場所だということでございますな。


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コメント一覧 (1件)
Wikipediaから引用
京都御所(きょうとごしょ)は、京都府京都市上京区にある皇室関連施設。法律上の位置づけは東京都の皇居などと同じく皇室用財産。1337年(建武4年)から1869年(明治2年)までの間の内裏・禁中・禁裏・宮中(歴代天皇並びに後宮や世子などが居住し朝廷として儀式・公務を執り行った場所のことで、現在の皇居とほぼ同義)。現存する建物は概ね1855年(安政2年)に造営した安政度内裏である。現在の京都御所は、宮内庁京都事務所が管理している。平安遷都(延暦13年・794年)時の内裏は、現在の京都御所よりも1.7キロ西の千本通り沿いにあった。現在の京都御所は、もと里内裏(内裏が火災で焼失した場合などに設けられた臨時の内裏)の一つであった土御門東洞院殿の地である。南北朝時代(14世紀半ば)から北朝側の内裏の所在地として定着し、明治2年(1869年)、明治天皇の東京行幸時まで存続した。明治以降は京都皇宮(きょうとこうぐう)とも称される。土御門東洞院殿は、1337年9月26日(建武4年9月2日)に北朝2代光明天皇が居住して以降、明治天皇の東京奠都に至るまで約530年間にわたって使用され続けた内裏である。当初は東西一町南北半町の敷地だったが、足利義満によって敷地が拡大され、その後織田信長や豊臣秀吉による整備を経て現在の様相がほぼ固まった。内裏は江戸時代だけでも慶長度(1613年)、寛永度(1642年)、承応度(1655年)、寛文度(1662年)、延宝度(1675年)、宝永度(1709年)、寛政度(1790年)、安政度(1855年)と8回も再建されており、このうち慶長度と寛永度は旧殿を取り壊しての建て替え、それ以外は火災焼失による再建となっている。徳川11代将軍・家斉は、当時蟄居中であった老中松平定信に命じ、有職故実の大家裏松固禅(光世)の書『大内裏考證(だいだいりこうしょう)』を参考とし、寛政の造営は有職故実を重んじ、平安京の古制に則って再建された。これが寛政2年(1790年)の寛政度の造営である。その後、嘉永7年(1854年)4月6日から4月7日、この御所の東南にある大宮御所芝御殿孝順院(掌侍)住居から出火し、内裏も焼失した。現在の造営は、徳川13代将軍・家定が、孝明天皇の勅命を受け、老中阿部正弘に命じて再建される。安政2年(1855年)11月23日に再建がなり、これが安政度の造営といわれる。慶応元年(1865年)~慶応2年(1866年)2月以降、現在の形となった。現在は京都御所、京都大宮御所と京都仙洞御所は国有財産で、宮内庁が管轄する「皇室用財産」に分類されており、これらの周囲の国民公園である京都御苑を環境省が管理している。京都市民は京都御苑も含めて、単に「御所」(ごしょ)と呼ぶことが多い。