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DoraNeko前回この屋島寺に来たのは10年ほど前でございます。今回思い出したその時のエピソードでございます。ワタクシの前後を歩いていた関西方面からと思しき4~5名のオバハン集団が居たのですが、この像に差し掛かった時にこの像を撮影していたワタクシの隣で「これ絶対みんな触ってるやんな~さすってるんやろな、この辺ヒカってるやんな~、みなスキやな~」と言ってから、ふと隣に居るのが自分の仲間ではなく他人のワタクシだと気付いて「きゃあ」と奇声を上げたのでございます。すぐさま仲間たちのところへ駆けて行きましたが「きゃあ」と言いたいのはワタクシでございましたですよ。


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Wikipediaから引用
屋島寺(やしまじ)は、屋島の南嶺山上(香川県高松市屋島東町)にある真言宗御室派の寺院。南面山(なんめんざん)、千光院(せんこういん)と号す。本尊は千手観音菩薩。四国八十八箇所第八十四番札所。律宗の開祖である鑑真が天平勝宝6年(754年)朝廷に招かれ奈良に向かう途中に当地を訪れて開創し、そののち弟子で東大寺戒壇院の恵雲がお堂を建立し屋島寺と称し初代住職になったという。ここから1 kmほど北の北嶺山上に屋島寺前身とされる千間堂遺跡がある。その後の時代の古代山城屋嶋城の閉鎖に伴い、南嶺の屋嶋城本部跡地に屋島寺を創設したとされる。すなわち弘仁6年(815年)嵯峨天皇の勅願を受けた空海は、お堂を北嶺から南嶺に移し、千手観音像を安置し本尊とした。天暦年間(947年 ~ 957年)明達が四天王像と、現在の本尊となる十一面千手観音坐像を安置した。明徳2年(1391年)の西大寺末寺帳に屋島寺と屋島普賢寺の名があり、当時は奈良・西大寺(真言律宗)の末寺であったことがわかる。高松藩主生駒一正は慶長6年(1601年)に屋島寺の寺領25石を安堵。近世を通じ、当寺は高松藩の保護下にあった。現在も国有林部分を除いて、屋島山上の敷地のほとんどは屋島寺の所有である。江戸時代初期まで本土と離れた島であったが、寛永14年(1637年)高松藩主・生駒高俊により陸続きとなった。その後、藩主・松平頼重が旧跡を惜しんで、正保4年(1647年)本土との間に水路(相引川)が復元された。