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銅造宝篋印塔@浅草寺
銅造宝篋印塔@浅草寺
銅造宝篋印塔@浅草寺

浅草寺の本堂西側にある銅造宝篋印塔でございます。台東区の有形文化財に指定されております。台東区のWEBサイトによりますと「総高は730センチメートル、塔高は520センチメートルあります。銅製、鋳造の宝篋印塔ほうきょういんとうで、その形状は江戸時代中期以降に流行した、笠部を屋蓋形とした宝篋印塔です。本塔は宝暦11年(1761)9月に日参講、塔婆講などを中心とする多くの信徒の助力によって建立されました。寄進者は700名を超え、石造かまちの四周に刻まれています。寄進者は現在の台東区・千代田区・中央区・文京区・墨田区の範囲に広がり、中には札差の伊勢屋四郎左衛門等「十八大通」と呼ばれた人々や、俳優の中村鯉長、中村秀鶴等の名も見えます。このことから、本塔の造立は浅草寺を挙げた一大事業であったことが推測されます。本塔を制作した西村和泉守藤原政時は、神田鍛冶町1丁目に住した鋳物師で、江戸時代前期から大正時代まで11代にわたって活躍しました。本塔を制作したのは、その年代から4代西村和泉守(安永4年[1775]没)と推定されます。作例は40例以上が知られており、妙経寺(元浅草)の銅鐘(宝暦13年[1763]銘)は、平成10年に台東区区民文化財台帳に登載されています。安政2年(1855)の震災で被災し、破損したままとなっていましたが、明治40年(1907)、日露戦争凱旋記念のために再建されました。本塔は区内に現存する銅造宝篋印塔の中でも最大のもので、近世中期の鋳物師の活動や鋳造技術を知る上でも貴重な遺品のひとつであり、区の歴史を知る上でも貴重です。」とのことでございます。

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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    浅草寺(せんそうじ)は、東京都台東区浅草二丁目にある都内最古の寺で、正式には金龍山浅草寺(きんりゅうざんせんそうじ)と号する。聖観世音菩薩を本尊とすることから、浅草観音(あさくさかんのん)とも呼ばれている。山号は金龍山。元は天台宗に属していたが、1950年(昭和25年)に独立して聖観音宗の本山となった。都内では坂東三十三観音唯一の札所(第13番)、また江戸三十三観音札所の第1番でもある。全国有数の観光地であるため、正月の初詣では毎年多数の参拝客が訪れ、参拝客数は常に全国トップ10に入っている。浅草は近代以降も庶民の盛り場、娯楽場として発達し浅草寺はそのシンボル的存在であった。1873年(明治6年)には境内が公園地に指定され(浅草公園)、1885年(明治18年)12月27日)には表参道両側の「仲見世」が近代的な煉瓦造の建物に生まれ変わった。1890年(明治23年)には商業施設と展望塔を兼ねた12階建ての「凌雲閣」(通称「浅草十二階」)が完成している。1917年(大正6年)からは日本語の喜歌劇である「浅草オペラ」の上演が始まり、映画が普及する以前の大衆演劇として隆盛した。関東大震災では浅草区は大半が焼失する被害にもかかわらず、浅草寺では地元の鳶職の親方が境内の避難民を指揮してバケツリレーによる防火作業を行った結果、一部建築物が延焼するだけの被害で済んでいる。しかし1945年(昭和20年)3月10日、東京大空襲で旧国宝の本堂(観音堂)、五重塔などが焼失。第二次世界大戦後の浅草は、娯楽の多様化や東京都内の他の盛り場の発展などによって一時衰退した。しかし、地元商店街のPR活動等によってかつての賑わいを取り戻しつつあり、下町情緒を残す街として東京の代表的な観光地となっており、新型コロナパンデミック以降では訪日外国人観光客(インバウンド)に非常に人気の高い観光スポットとなっている。羽子板市、ほおずき市などの年中行事は多くの人出で賑わっている。

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