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日本橋人形町の大観音寺でございます。太平洋戦争末期の東京大空襲の折、奇跡的に焼け残った地域の一つである花街の芸者新道入り口にある、如何にも東京らしいビルの一角にあるお寺でございます。こじんまりした境内には白衣興亜観音、韋駄天尊などがあるのでございますよ、そこの奥さん(←だから何処の奥さんやねんってばよw)。









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Wikipediaから引用
日本橋人形町(にほんばしにんぎょうちょう)は、東京都中央区の町丁で、旧日本橋区に含まれる。現行行政地名は日本橋人形町一丁目から日本橋人形町三丁目。住居表示実施済区域。人形町通りの両側や甘酒横丁を中心に飲食店や商店が連なる商業エリアであるとともに、日本橋地域の一角としてのオフィス街でもある。近時には、住宅の都心回帰により、住居の数が増え、人口も増加している。毎年8月に人形町通りで行われる「せともの市」は夏の恒例行事となっている。中央区北部および日本橋地域のほぼ中央に位置する。
江戸時代初期には、幕府公認の遊廓である吉原遊廓が人形町通り東側の辺り(現在の日本橋人形町二・三丁目、日本橋富沢町の一部)にあった。今も通りの名前に残る「大門通り」はその名残である。1657年(明暦3年)1月の明暦の大火の後、幕府の命で吉原遊廓が浅草寺裏の日本堤付近に位置する千束田んぼの真ん中(現在の千束三丁目の一部と四丁目の大部分)に移転させられた。以後、元々遊郭が在ったこの地を「元吉原」、対して移転先は「新吉原」と呼ぶ様になった。遊廓の移転ののち、江戸期において、近隣には芝居小屋が集中した。また、1764年(明和元年)には旧芳町に12軒の陰間茶屋が存在した。近隣の旧堺町や旧葺屋町まで含めると20数軒にまで及ぶほど、かつての人形町は男色の中心地として賑わいを見せていた。堺町と葺屋町にあった芝居小屋は、1841年(天保12年)10月7日の火災の後、天保の改革の一環で、浅草猿若町(現:台東区浅草6丁目)に移転した。江戸期には、江戸の大火の影響で幾度も町域の焼失の歴史がある。町域の北部は町人の町であり、南部の蛎殻町方面は武家地として利用されていた。関東大震災(大正12年)の被害を受けての区画整理がなされ、現在の町並みとなった。震災以降、昭和初期には新興喫茶(カフェー)が立ち並ぶ街となった。全盛期の昭和10年ごろには、人形町通りを挟んだ両側の路地に80軒以上のカフェーがあった。太平洋戦争末期の東京大空襲(1945年〈昭和20年〉3月10日)では、浜町方面を中心として大きな被害を受けたが、南部を中心として焼け残った地域もあり、自主的な建物疎開の影響を受けていない部分は、古い建物が戦後にも残っていた地域である。昭和の戦後期においては、商店街が栄え、1951年(昭和26年)には、人形町通り沿いの商店街に、東京初のアーケードが完成した(1984年〈昭和59年〉に撤去)。昭和末期頃まで、日本橋蛎殻町に和陶器卸が集まっていたことで、現在でも人形町において「せともの市」が継続的に開催されている。