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豊臣秀吉を祀る豊国神社の目の前にある、耳塚 (鼻塚)でございます。文禄・慶長の役、すなわち朝鮮出兵の際に、戦功の証として討取った兵の耳や鼻を削ぎ持ち帰ったものを葬った塚でございます。国の史跡に指定された「方広寺大仏殿跡及び石塁・石塔」に含まれております。

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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    耳塚(みみづか)もしくは鼻塚(はなづか)とは戦死者の耳や鼻を弔ったとされる塚である。文禄・慶長の役における朝鮮および明兵の戦死者の鼻を弔ったものが有名。これ以外にも日本全国に耳塚と呼ばれるものは多数存在するが、実際に耳や鼻が葬られているものは確認されていない。戦国時代までの武士は戦功の証として、高級将校は死体の首をとって検分し首塚で供養していたが、一揆(兵農分離前の農民軍)や足軽など身分の低いものは鼻や耳でその数を証した。切捨御免など戦功とならない殺人は検分や供養をしないため、打捨と呼ばれる。京都市東山区、豊国神社門前にある史跡で鼻塚とも呼ばれる。豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役1592年 – 1598年)のうち、慶長の役で戦功の証として討取った朝鮮・明国兵の耳や鼻を削ぎ持ち帰ったものを葬った塚。古墳状の盛り土をした上に五輪塔が建てられ周囲は石柵で囲まれている。1969年(昭和44年)4月12日、「方広寺石塁および石塔」として国の史跡に指定された。その後2014年に史跡の指定名称が「方広寺大仏殿跡及び石塁・石塔」に変更されている。当初は「鼻塚」と呼ばれていた。しかし林羅山がその著書『豊臣秀吉譜』の中で鼻そぎでは野蛮だというので「耳塚」と書いて以降、耳塚という呼称が広まったようである。約2万人分の耳と鼻が埋められている。『義演准后日記』慶長2年(1597年)9月12日条には「高麗より耳鼻十五桶上ると云々、大仏近所に塚を築きこれを埋む、合戦日本大利を得と云々」とある。この塚は慶長2年(1597年)に秀吉の命で築造された。秀吉は方広寺大仏(京の大仏)を造立したが、耳塚はその門前に位置していた。歴史学者の河内将芳は、秀吉が方広寺の門前に耳塚を築かせたのは、参詣者に巨大な耳塚を見せつけ、朝鮮出兵の戦果誇示を図る狙いがあったのではないかとしている。同年9月28日に耳塚で施餓鬼供養が行われたが、この施餓鬼供養は秀吉の意向に添って西笑承兌が行ったもので、京都五山の僧を集め盛大に行われたという。

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