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DoraNeko

比叡山高校の生徒さん達なんでしょうね、私学だから土曜日の午前というのは授業があったんでしょうかね、その下校途中に涼しい顔で駅に向かう若人衆とすれ違いながら、というかかわしながら逆方向に暑苦しい顔で、緩いとはいえ上り坂をひいこら言いながら、日陰を選びながら這う這うの体で歩くジジイでございますよ。若い頃にはしょっちゅうここら辺りを歩けていたジジイ、今はもう必死で行軍しているのでございますよ。ああ情けない。戦国の頃に石組みのエリート集団として各地の名城や神社仏閣の石垣を築き上げてきた「穴太衆(あのうしゅう)」の面影をゆったり楽しむ? あのう、ワタクシ歩くだけで精いっぱいですわ。

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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    穴太衆(あのうしゅう)は、日本の近世初期にあたる織豊時代(安土桃山時代)に活躍した、石工の集団。主に寺院や城郭などの石垣施工を行った技術者集団である。石工衆(いしくしゅう)、石垣職人(いしがきしょくにん)とも称す。「穴太」の歴史的仮名遣での読み仮名は「あなふ」である。穴太衆は、近江の比叡山山麓にある穴太(穴太ノ里[あのうのさと]などとも俗称。現在の滋賀県大津市坂本穴太。延暦寺と日吉大社の門前町・坂本の近郊)の出身で、古墳築造などを行っていた石工の末裔であるという。寺院の石工を任されていたが、高い技術を買われて、安土城の石垣を施工したことで、織田信長や豊臣秀吉らによって城郭の石垣構築にも携わるようになった。それ以降は江戸時代初頭に到るまでに多くの城の石垣が穴太衆の指揮のもとで作られた。彼らは全国の藩に召し抱えられ、城石垣等を施工するようになったというが、不明な部分も多い。現代でも、坂本の町に多数立ち並ぶ「里坊(さとぼう)」と呼ばれる延暦寺の末端の寺院群は、彼らの組んだ石垣で囲まれ、町並みに特徴を与えている。穴太積(あのうづみ、穴太積み)は、野面積(野面積み)を指して昭和初期以降に用いられるようになった俗称であり、穴太衆が手がけた野面積の石垣のことを言う。しかし、野面積のことを穴太石垣と誤解されることもある。穴太衆は石垣職人であり、したがって、実際は玉石積や切石積も行えた。

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