大分駅前ロータリーの大友宗麟像。




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words=’ キリシタン大名、大友宗麟の像でございますな。書画、茶道、能、蹴鞠などに通じた文化人でもあったようです。威風堂々とした銅像ですな~。通り掛かりの女性が友達との会話で「こわもてのオッサンの銅像」とか言うてまんがな。なんちゅうこっちゃ、やで~。 ‘
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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    大友 義鎮 / 大友 宗麟(おおとも よししげ / おおとも そうりん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。キリシタン大名。大友氏21代当主。宗麟の法号で知られている。大友氏は鎌倉時代から南北朝時代にかけて少弐氏・島津氏と共に幕府御家人衆の束ね役として権勢を振るい、室町時代に入ってからは大内氏の進出に対し少弐氏と結び抗争している。父は20代当主・大友義鑑。母は公家の坊城氏の娘が母とする説がある。弟に大内義長、塩市丸、親貞など。子に義統(吉統)、親家、親盛など。中国明朝への遣明船の派遣をはじめ、琉球、カンボジア、ポルトガルを相手とした海外貿易による経済力、優れた武将陣、巧みな外交により版図を拡げ、大内氏や毛利氏をはじめとする土豪・守護大名などの勢力が錯綜する戦国時代の北九州東部を平定した。当初は禅宗に帰依していたが後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。最盛期には九州六ヶ国を支配して版図を拡げた。しかし、薩摩から北上した島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉傘下の一大名となった。文化人としての活動は活発で書画、茶道、能、蹴鞠などの諸芸に通じ、古くから中央の文化人を招くなどしている。キリシタン大名としても知られる義鎮だが、天文20年(1551年)に豊後へ布教のためにやってきたイエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエルを引見したことがキリスト教との出会いであった。27年後の天正6年(1578年)7月にキリスト教の洗礼を受け、ポルトガル国王に親書を持たせた家臣を派遣している。領内での布教活動を保護し、南蛮貿易を行う。また博多商人の島井宗室や神屋宗湛らと交友し、日明貿易や日朝貿易も行った。

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