赤いバナーを押していただけると感謝感激雨アラレちゃんです。 市電に会いに梅小路ぃ実は来るまで知らなかったんだけどねwこれはエエもんが出けましたな~すぐ脇には鉄道博物館も出来ることやし! 赤いバナーを押していただけると感謝感激雨アラレちゃんです。 京都府 梅小路京都西駅 レトロ 引退車両・静態保存車両 公園 京都市交通局 風景 観光名所 モニュメント テーマパーク 街並み 京都市 この記事が気に入ったら フォローしてね! Follow @web_dora よかったらシェアしてね! URLをコピーしました! URLをコピーしました! 島原(京都市) 面白貼り紙@祇園花見小路 関連記事 私設圖書館(京都市) 2024年8月31日 五重塔@仁和寺 2024年8月27日 円山公園(京都市) 2024年9月23日 ジオラマ京都JAPAN(京都市) 2021年12月27日 西院駅(阪急電鉄) 2021年12月26日 蚕ノ社駅(京福電鉄) 2024年8月26日 真倉駅(JR西日本) 2022年8月10日 花灯路@竹林の道 2012年12月8日 お気軽にコメントをお寄せください コメント一覧 (1件) Wikipediaから引用 京都市電(きょうとしでん)は、京都市交通局が運営していた市電(路面電車)である。1895年に京都電気鉄道によって日本最初の一般営業用電気鉄道として開業され、1912年の市営路線開設、1918年の全面市営化を経た後、1978年9月30日限りで全廃された。1895年(明治28年)、民間企業である京都電気鉄道により第1期区間が開業。日本最初の一般営業用の電車となった。京都に日本初の電車が開業した背景には、国内に先駆けて(世界でも2番目ともいう)水力発電が行われたことが挙げられる。京都は東京奠都に伴って天皇の膝下という地位を失い、市民の間で衰退が懸念されたことから、その挽回策として政府からの下賜金をもとに琵琶湖疏水が計画された。当初水車に利用する予定であった水力が発電に使えると知った設計者田辺朔郎は、急遽渡米して世界初といわれる水力発電設備を調査の上、帰国後ただちに設計を変更して蹴上に水力発電所を建設した。だが、電力を得ても当時はまだ電灯の使用が見込めず、産業用動力としてもなじみがなかったため、結果的に路面電車が電力の唯一の使い道となった。最初の路線は京都市南部の伏見から京都駅前付近までで、その後、京都駅前から高瀬川沿いを北上、二条で鴨川を渡り東方の岡崎まで延長された。岡崎で開催予定の内国勧業博覧会への足として、大阪から淀川を船で来る客を見込んでのこととされる。ただし、開業当初は京都駅付近の軌道が繋がっておらず、乗客は踏み切りを渡って乗り換えなければならなかった。また、開業当初には路面電車による事故を防止するため、「告知人」と言われる先導役の少年が電車の前を走りながら「電車、来まっせ。電車、来まっせ。危のおっせ。」と声を張り上げたが、時には先導役の少年自身が急に電圧が上がったために不意に急加速した電車に轢かれるという痛ましい事故もあったという。その後、京都市によっても1912年(明治45年)の4路線7.7km開業を皮切りにして独自に路線建設がなされ、それと競合することになった京都電気鉄道は、均一運賃制への移行のためもあって、市へ1918年(大正7年)に買収された。京都電気鉄道買収後、路線は戦後に至るまで延長され、最盛期は76.8km、車両351両(1957年度)の路線となった。乗客も増え1963年(昭和38年)には一日平均564,488人の利用があった。しかしその後の自動車の普及により乗客の減少がつづき経営が困難となり順次廃止されていった。当時、モータリゼーションの進展、地下鉄の敷設こそが進歩の象徴、大都市の条件とする風潮があり、路面電車を故意に時代遅れのものに貶めるネガティブ・キャンペーンのようなものがあった。定時性を確保し乗客離れを食い止めるためには、1960年代に解禁された自動車の併用軌道乗り入れを再び全面禁止すべきという声もあったが、市は一部の路線(外周線の18.3kmにつき1975年4月から)を除き実施しなかった。また実施された区間においてもそれが徹底されていたとはいえない面があった。定時性が保てない→運行ダイヤを停留所に提示できない→乗客離れが進むといった悪循環が、意図的に行われたという指摘もあった。併用軌道乗り入れ禁止ができなかったことが一因で廃止に追い込まれたケースは金沢、川崎、岐阜など数多い。1969年(昭和44年)、富井清市長の在職時に京都市の新たな交通計画(十文字の地下鉄路線とそれを補完するバス路線網)が可決され、外周線を除く市電の撤去が定められた。この背景には、累積赤字で交通局が財政再建団体に指定され、自治省(当時)からの利子補填などの支援・監督を受けるに当たり、赤字事業の縮小として路面電車の撤去が求められるという事情もあった(これは京都に限らず当時の多くの公営路面電車が直面した)。市民による存続運動も行われたが、市は拒否。1976年(昭和51年)に全面撤去へと計画を変更したのち、地下鉄開業にそなえ1978年(昭和53年)に全面廃止され、83年の歴史に幕を閉じた。市電廃止反対を求める署名は27万人に達したとされる。市電廃止はマスコミに「日本で最初に開業した電車が廃止」などと大きく取り上げられて全国的に報道された。廃止後も全国から京都市交通局に記念乗車券の注文が相次ぎ、1978年(昭和53年)12月で販売終了していたが1979年(昭和54年)4月に販売を再開。同年9月29日までに16万円を売り上げて営業廃止後に運輸収入が発生する事態になり、在庫のあるうちは引き続き販売を継続していた。なお、地下鉄路線網は1969年(昭和44年)当時の計画から40年以上が経過した2010年(平成22年)になってもすべて完成しておらず、交通局の赤字体質も改善されてはいない。市電全盛期には市営バスはこれを補完する役割を担い、御前通や七本松通など裏通りを走る路線も数多く見られたが、かつての市電路線網がバス転換化されると人口のドーナツ化現象も相まってそれらの矮小路線はほとんど廃止されてしまった。 返信 コメントする コメントをキャンセルコメント ※ 名前 ※ メール ※ サイト 次回のコメントで使用するためブラウザーに自分の名前、メールアドレス、サイトを保存する。 Δ
Wikipediaから引用 京都市電(きょうとしでん)は、京都市交通局が運営していた市電(路面電車)である。1895年に京都電気鉄道によって日本最初の一般営業用電気鉄道として開業され、1912年の市営路線開設、1918年の全面市営化を経た後、1978年9月30日限りで全廃された。1895年(明治28年)、民間企業である京都電気鉄道により第1期区間が開業。日本最初の一般営業用の電車となった。京都に日本初の電車が開業した背景には、国内に先駆けて(世界でも2番目ともいう)水力発電が行われたことが挙げられる。京都は東京奠都に伴って天皇の膝下という地位を失い、市民の間で衰退が懸念されたことから、その挽回策として政府からの下賜金をもとに琵琶湖疏水が計画された。当初水車に利用する予定であった水力が発電に使えると知った設計者田辺朔郎は、急遽渡米して世界初といわれる水力発電設備を調査の上、帰国後ただちに設計を変更して蹴上に水力発電所を建設した。だが、電力を得ても当時はまだ電灯の使用が見込めず、産業用動力としてもなじみがなかったため、結果的に路面電車が電力の唯一の使い道となった。最初の路線は京都市南部の伏見から京都駅前付近までで、その後、京都駅前から高瀬川沿いを北上、二条で鴨川を渡り東方の岡崎まで延長された。岡崎で開催予定の内国勧業博覧会への足として、大阪から淀川を船で来る客を見込んでのこととされる。ただし、開業当初は京都駅付近の軌道が繋がっておらず、乗客は踏み切りを渡って乗り換えなければならなかった。また、開業当初には路面電車による事故を防止するため、「告知人」と言われる先導役の少年が電車の前を走りながら「電車、来まっせ。電車、来まっせ。危のおっせ。」と声を張り上げたが、時には先導役の少年自身が急に電圧が上がったために不意に急加速した電車に轢かれるという痛ましい事故もあったという。その後、京都市によっても1912年(明治45年)の4路線7.7km開業を皮切りにして独自に路線建設がなされ、それと競合することになった京都電気鉄道は、均一運賃制への移行のためもあって、市へ1918年(大正7年)に買収された。京都電気鉄道買収後、路線は戦後に至るまで延長され、最盛期は76.8km、車両351両(1957年度)の路線となった。乗客も増え1963年(昭和38年)には一日平均564,488人の利用があった。しかしその後の自動車の普及により乗客の減少がつづき経営が困難となり順次廃止されていった。当時、モータリゼーションの進展、地下鉄の敷設こそが進歩の象徴、大都市の条件とする風潮があり、路面電車を故意に時代遅れのものに貶めるネガティブ・キャンペーンのようなものがあった。定時性を確保し乗客離れを食い止めるためには、1960年代に解禁された自動車の併用軌道乗り入れを再び全面禁止すべきという声もあったが、市は一部の路線(外周線の18.3kmにつき1975年4月から)を除き実施しなかった。また実施された区間においてもそれが徹底されていたとはいえない面があった。定時性が保てない→運行ダイヤを停留所に提示できない→乗客離れが進むといった悪循環が、意図的に行われたという指摘もあった。併用軌道乗り入れ禁止ができなかったことが一因で廃止に追い込まれたケースは金沢、川崎、岐阜など数多い。1969年(昭和44年)、富井清市長の在職時に京都市の新たな交通計画(十文字の地下鉄路線とそれを補完するバス路線網)が可決され、外周線を除く市電の撤去が定められた。この背景には、累積赤字で交通局が財政再建団体に指定され、自治省(当時)からの利子補填などの支援・監督を受けるに当たり、赤字事業の縮小として路面電車の撤去が求められるという事情もあった(これは京都に限らず当時の多くの公営路面電車が直面した)。市民による存続運動も行われたが、市は拒否。1976年(昭和51年)に全面撤去へと計画を変更したのち、地下鉄開業にそなえ1978年(昭和53年)に全面廃止され、83年の歴史に幕を閉じた。市電廃止反対を求める署名は27万人に達したとされる。市電廃止はマスコミに「日本で最初に開業した電車が廃止」などと大きく取り上げられて全国的に報道された。廃止後も全国から京都市交通局に記念乗車券の注文が相次ぎ、1978年(昭和53年)12月で販売終了していたが1979年(昭和54年)4月に販売を再開。同年9月29日までに16万円を売り上げて営業廃止後に運輸収入が発生する事態になり、在庫のあるうちは引き続き販売を継続していた。なお、地下鉄路線網は1969年(昭和44年)当時の計画から40年以上が経過した2010年(平成22年)になってもすべて完成しておらず、交通局の赤字体質も改善されてはいない。市電全盛期には市営バスはこれを補完する役割を担い、御前通や七本松通など裏通りを走る路線も数多く見られたが、かつての市電路線網がバス転換化されると人口のドーナツ化現象も相まってそれらの矮小路線はほとんど廃止されてしまった。 返信
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