芦野公園に超音速高等練習機T2がございました。






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words=’なんとっ! こんなところで超音速ジェット機T-2にお目にかかるとはっ! ですよ。こやつはたしかブルーインパルスでも使われたヤツじゃなかったでしたっけか?芦野公園のゴーカート乗り場なる場所にひっそりと佇んでおりました。子供達の恰好の遊び場と化しておりますがな。 ‘
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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    T-2は、日本で開発された超音速ジェット機。日本が初めて開発した超音速機であり、航空自衛隊で、戦闘機の一歩手前の訓練のための高等練習機として用いられた。また支援戦闘機(戦闘爆撃機)であるF-1の原型にもなっている。大抵は「ティーツー」と呼ばれ愛称は無い。航空自衛隊では、第1次F-XとしてF-104Jを導入し、1962年より配備を開始していた。同機は、従来用いられてきたF-86F・F-86Dとは隔絶した性能を備えていたことから、転換教育のため、急遽、複座型のF-104DJも導入された。しかし、T-33A練習機での課程を終えたばかりの新人パイロットにとって、F-104DJはあまりに高度であった。F-86D/F戦闘機に習熟したパイロットであればF-104DJでの教育だけで十分だったものの、F-104DJとの橋渡しのためだけに新人パイロットにF-86Fの課程を受講させるのはあまりに非効率的であった。しかもF-86Fは既に老朽化・陳腐化が進んでおり、要撃戦闘機としては既にF-104Jに代替されていたものの、支援戦闘機としての後継機も必要になると考えられた。このことから、T-33Aから複座型戦闘機への橋渡しをする超音速練習機の導入が検討されるようになり、T-38A/BおよびTF-104が候補機とされた。1965年9月、航空幕僚監部人事教育部の鈴木教育課長を団長とする調査団を派米し、4週間に渡ってアメリカ空軍の教育体系を調査した。この結果、一度はT-38Bが選定されて、第3次防衛力整備計画より導入を開始する計画とされた。しかし当時、技術研究本部の守屋富次郎本部長は、「日本はこの機会に超音速機を開発しなければ、永遠に開発できなくなる」と主張していた。また当時の松野防衛庁長官は装備の国産化を志向していたこともあり、1965年末には、国産機の採用を検討するように指示された。これに対し、航空自衛隊は、国内開発では時間がかかることを危惧していたことから、3次防では「つなぎのT-X」として海外の機体を導入し、4次防からは国産T-Xを導入することが計画された。その後、1969年に、第2次F-Xとして複座のF-4EJの導入が決定されると、F-4の後席要員に機種転換教育の役割を兼ねさせることになり、「つなぎのT-X」のための予算はF-4EJの購入費に転用された。

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