芦野公園に、津軽森林鉄道のディーゼル機関車と運材台車が。










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words=’芦野公園には、こんなのも保存展示されていましたよ。日本初の森林鉄道である津軽森林鉄道で使われていたディーゼル機関車と運材台車ですって。この公園は色々あって、あなどれないっすね。 ‘
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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    津軽森林鉄道とは、青森県の津軽半島一帯に路線を持っていた、日本初の森林鉄道である。1906年に着工され、1908年に蟹田 – 今泉の一部が開業。翌1909年に青森貯木場から喜良市(きらいち)までの幹線67kmが完成した。支線を含めた総延長は283kmに及んだ。2017年度に林業遺産に認定された。津軽半島のヒバ林は日本三大美林の一つとして知られ、藩政時代には木材として出荷されるとともに、「御留山(おとめやま)」として保護育成されていた。このうち伐採が禁止されていたり、切り倒したヒバを流して運び出すのに適切な河川が近くになかったりした区域には、未利用のヒバが多く残っていた。当時の津軽地方の木材の輸送方法は、原始的な流送(管流、いかだ流し)であり、冬期間に雪橇によって山地から流送に適した地点に集められた木材は、春先の雪解け水により増水した河川に放流された。源流から海までの距離が短く、急峻で水量の少ない河川しかない津軽半島では、流送できる期間が春先の増水期に限られた。また、水深が浅いため、流送による木材の損傷・紛失も多く、また流送の途中で橋梁や耕地等に損害を与えることも多く、計画的な林業経営ができないほど輸送力は脆弱だった。1891年(明治24年)に東北本線、同27年には奥羽本線と鉄道が相次ぎ開通し、その終点である青森市が木材や海産物の集散地として発展するようになると、津軽半島のヒバ材も青森市へ集められ、鉄道により県外へ運ばれるようになる。明治36 – 37年の日露戦争を契機として、国内の経済活動が活発化するにつれて木材需要が増加した。国家財政に役立てる意味から国の直営による木材生産を行うことが求められ、1905年(明治38年)には当時最大と言われた青森貯木場が完成し、翌年には全国初の官営製材所として青森製材所が設置された。計画的な林業経営を確立するためには木材の安定した供給が不可欠であり、津軽半島の豊富な木材をいかに効率的に青森市へ集めるかが課題であった。その切り札となったのが森林鉄道の導入であった。

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