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words=’1960年(昭和35年)の廃止ですから既に60年以上経過しておりますが、このような形で今だに残っているってのは感激でございます。ワタクシの小学校入学時ですやん、それ。それにしても、とんでもないところに電車が走っていたんですな。高原列車っすな。実際にロケに使われたんですってさ。カルメン故郷に帰るって映画でもこの駅が使われたんですってさ。長野県側の軽井沢のバブリーな感じと比べて、こっちの群馬県側って落ち着いてますな~、ですってさ。’
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words=’当分の間、リアルタイムではございませんで、過去に訪れた際の写真を基にした記事が続きます。新型コロナ、緊急事態宣言が出されたことに伴い、不要不急の外出を避けるよう要請されている地域が増えましたのでワタクシも一人旅に関しては一時自粛させて頂きます。ライフワークでありますので忸怩たる思いがございますが昨今の状況を踏まえれば仕方ないことでございます。過去に撮り溜めていた画像がまだ多く手元にあるので、暫くはそれを使用して記事の更新は続けて参るつもりです。’
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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    北軽井沢駅(きたかるいざわえき)は、かつて群馬県吾妻郡長野原町にあった草軽電気鉄道の駅(廃駅)である。1918年(大正7年)6月15日に草津軽便鉄道の地蔵川駅(じぞうがわえき)として開業した。その後、地蔵川駅の近接地域に開発された別荘地である「法政大学村」(現・「社団法人・北軽井沢大学村組合」、通称「大学村」)により駅舎が改築・寄贈され、1927年(昭和2年)に草津電気鉄道(1924年(大正13年)に草津軽便鉄道より社名変更)の北軽井沢駅へと改称された。駅名の由来は軽井沢の北側に位置していたため。屋根の形が信州の善光寺をモデルにした駅舎となっており、駅舎正面の欄間には、「大学村」の開村に関わりの深い「法政大学」の頭文字である“H”が刻まれている。1939年(昭和14年)4月28日に草軽電気鉄道(草津電気鉄道より社名変更)の駅となったが、1949年(昭和24年)に発生した台風による沿線各所への被害、1950年(昭和25年)および1959年(昭和34年)に発生した台風による吾妻川橋梁の流失などの度重なる災害が影響し、1960年(昭和35年)4月25日に新軽井沢駅 – 上州三原駅間廃止に伴い廃駅となった。浅間隠山の西側の麓に位置し、駅周辺は住宅地となっている。駅南側には浅間牧場が広がっており、南西方向には浅間山がある。旧駅舎は、廃線後に元草軽職員が譲受の上私費を投じて修繕・整備を行い、30年弱に渡りスナックの店舗として活用されていた。2001(平成13)年の閉店後は長野原町に売却され、2005(平成17)年に改めて改修工事が施され、翌2006年(平成18年)9月15日には国の登録有形文化財に登録するよう答申され、同年11月29日に「旧草軽電鉄北軽井沢駅駅舎」として文化庁より登録有形文化財として登録された(認定番号第10-0210号)。現在は北軽井沢観光協会が管理しており、夏期などに期間限定で無料開放されている。2010年(平成22年)7月より、駅舎裏には現役時代のホームと線路が再現整備され、木製模型のデキ12形電気機関車が実物大モニュメントとして設置・展示されている。北軽井沢のシンボルとして「北軽井沢コンソーシアム協議会」(現・浅間高原北軽井沢じねんびと)が企画立案・製作し、模型の設計・施工は光建築工房有限会社が行った。

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