高千穂線未成部のトンネルを利用した神楽酒造の貯蔵庫、トンネルの駅。






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高千穂観光 トンネル駅公式ホームページ
トンネルの中は樽貯蔵の焼酎が約1000本、「天使の分け前」と呼ばれる樽の表面から蒸発する熟成した香りに満ちています。(見学は無料です)長さ1,115m 焼酎の貯蔵樽1,000本 温度17℃ 湿度70% その樽貯蔵の様子は圧巻です。
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words=’高千穂線の高千穂駅から高森線の高森駅までの間を繋ぐ工事は1977年2月に起きた工事ミスによる水脈切断で中止の憂き目に遭い、結局は工事が再開することなく断念されたという経緯でございますね。そうして残された未成区間のトンネルを利用した貯蔵庫、その見学施設と販売施設がトンネルの駅と名付けられているのでございますか。’
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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    日清戦争の直後、軍事産業路線として熊本県と宮崎県延岡市を結ぶ九州横断鉄道敷設の話が持ち上がり、国鉄が延宇線(宇土 – 延岡)を計画したり、熊本 – 延岡を結ぶ鉄道敷設を目的として熊延鉄道が設立されたりするなどその気運は高まった。しかし、いずれも実現には至らなかった。その後1922年の改正鉄道敷設法で熊本 – 立野 – 高森 – 高千穂 – 日ノ影 – 延岡という鉄道計画が最終案となり(熊本 – 立野間は豊肥本線)、同年高森線(現・南阿蘇鉄道高森線)立野 – 高森間の工事が着手された。しかし国の財政難で工事が中断されたため、1925年には熊本県・宮崎県・大分県の関係者による「高千穂高森間鉄道速成同盟会」が結成され、鉄道建設促進運動を起こした結果、1939年までに延岡 – 日ノ影(現・日之影温泉)間が開通したものの、戦争の激化により再び鉄道建設の目処が立たないこととなった。戦後の1947年、地元で「日ノ影高森間鉄道敷設期成同盟会」が結成され、この鉄道の全線貫通を国に請願したことから、1962年鉄道審議会が日ノ影 – 高森間の建設を決定した。1966年に日本鉄道建設公団(以下「鉄道公団」と略)によって日ノ影 – 高千穂間の敷設工事が着工され1972年に完成、残る高千穂 – 高森間27.0kmの工事も1973年に着工、1977年完成を目指して工事が進められた。ところが1977年2月、掘削中の高森トンネル(予定延長6500m)の入口から2050m地点の坑内で、地下水の水脈を誤って切断したために毎分36tの異常出水が発生、これにより高森町内の湧水8か所が枯れ、井戸水を使用していた約1,000戸もの家庭で水道が断水する事故が起きた。そのため鉄道公団側はトンネルからの水をポンプで吸い上げ、町内の家に配水するよう処置したが、被害は町内の水田約113haにも及んだ。翌1978年トンネル工事は一時中止となり、事故を巡って鉄道公団と地元との補償交渉が開始され、事故から10年以上経った1989年に補償協定が成立した。この出水事故が最大の要因となり、鉄道敷設工事は中断された。そしてその後のモータリゼーションの進展により鉄道の必要性そのものが小さくなり、1980年国鉄再建法成立により工事予算が凍結され全面的に中止となった。高千穂 – 高森間の工事の進捗率は30%であったが、当時鉄道公団高千穂鉄道建設所の話では「あと7年あれば全線開通できる」状態であったという。高森線は1986年、高千穂線は1988年それぞれ第三セクター会社へ転換されたものの、結局この2つの鉄道を結びつける工事が再開されることはなく、明治時代からの悲願であった九州横断鉄道の夢は幻と消えた。

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