姫路モノレールの廃線跡遺構が、まだあちこちに残っております。













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words=’拙記事手柄山交流ステーションの旧姫路市営モノレールで紹介している姫路モノレールでございますが、有名な大将軍駅跡は解体されてしまいましたものの、橋脚とその下の建築物群がまだかなりの部分で残っておりますね。姫路駅周辺、特に駅前の再開発によって見違えるように近代化された風景の脇の方に存在する、「現代遺跡」とも「モノレール橋脚建築群」とも呼ばれる、橋脚下の所謂高架下建築群は廃線跡に残る橋脚の珍しさという部分じゃなく、その建物の醸し出す異様な雰囲気と中身の香ばしさっぷりに、感じ入るものがございますよ。’
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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    姫路市交通局モノレール線は兵庫県姫路市の姫路駅から同市の手柄山中央公園にあった手柄山駅までを結んでいた姫路市交通局の鉄道(モノレール)路線(廃線)。1966年に開業したが営業不振などにより1974年休止、1979年廃止となった。正式な路線名は無く、一般には姫路市営モノレール、姫路モノレールなどと呼ばれていた。1966年4月6日から同年6月5日にかけて手柄山で開催された「姫路大博覧会」(以下、姫路博)会場への輸送機関という名目で、姫路(仮)駅 – 手柄山駅間を先行開業させた。総工費14億5千万円と8か月の工期を要した。当初は開幕に先立つ4月3日の開業を予定していたが、姫路駅予定地の立ち退き交渉に手間取ったこと、台風や集中豪雨の影響もあって姫路博開幕には間に合わず、会期後半の5月17日になってようやく開業した。これに続けて飾磨・広畑の臨海工業地域まで路線を延ばすことが検討され、さらに市内に環状路線を建設し、日本海側の鳥取まで路線を延伸する壮大な構想が立てられていたという。しかし、運行距離が短く、終端が山上の都市公園内という立地もあって、姫路博終了後は利用者が激減。開業初年度は402,967人だった利用者数も、翌年(1967年)度には334,517人、翌々年(1968年)度は245,718人と、当初予想の100万人を大きく割り込んだ。輸送密度も毎年300 – 400人台が続き、後年の国鉄特定地方交通線並みに低迷していた。起終点の立地もさることながら、並行する山陽電鉄の姫路 – 手柄間の運賃が1969年まで20円、1974年まで30円だった時期に、姫路 – 手柄山間が100円という高額な運賃の影響も大きく、「タクシーの方が安かった」とまで言われた。営業係数は開業した1966年で195、翌年以降は400を超える水準で推移し、毎年1億円あまりの資金が姫路市の一般会計から投入され、一部の市民からは「市のお荷物」とまで言われたという。その後、建設推進派の石見が市長選挙で落選し、反対派の吉田豊信が当選したことや、当時は国からの補助金交付制度がなかったこともあり、累積赤字が膨らみ、また路線も延伸されないまま「乗客増が見込めない」「老朽化による維持修繕費の増大が見込まれる」「特殊な構造のため部品補充が難しい」などの理由により、わずか8年で営業休止となり、1979年に正式に廃止された。この営業期間はモノレールでは約1年4か月で休止となったドリームランドモノレールことドリーム開発ドリームランド線の次に短い。1974年4月時点での累積赤字は10億7200万円にも達していた。廃止後も軌道桁などの設備は、撤去費用や起債の償還等の問題もあり放置されていたが、一部で歩道化など再利用についての検討も行われていた。この間、休止中は実施されていた、保線車両による保守が廃止で取りやめとなった結果、1984年10月13日夜に手柄山駅北方で老朽化した饋電線が800mにわたって落下する事故が発生。このため同年以後は他事業に絡む部分から撤去が開始された。しかし恒久施設として建設された鉄筋コンクリート製橋脚の解体や、大型レッカー車の手配を要する軌道桁の撤去には約20億円もの費用がかかるため、現在でも軌道跡下にビルなどが建っている部分などを中心に橋脚や軌道桁が撤去されずに残っている区間がある。1991年には社会学者の鵜飼正樹が、古代ローマの水道橋をも連想させるこの廃線跡を「現代遺跡」と命名した。

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