沼津駅北口広場の、江原素六翁の像。




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words=’沼津駅北口広場に建立されている江原素六翁の像でございます。教育者で政治家のお方のようでございますな。’
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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    江原 素六(えばら そろく、天保13年1月29日(1842年3月10日) – 大正11年(1922年)5月20日)は、旧幕臣、政治家、教育者、キリスト者。旧名は鋳三郎。大日本平和協会副会長(会長は大隈重信)。幕府御家人の嫡子として武蔵国角筈(現:東京都新宿区)に生まれる。房楊枝作りを手内職とする貧しい家庭に育ち、辛苦を舐めながらの生活であったが、剣術、洋学を学び、講武所の教授方として取り立てられる。鳥羽・伏見の戦いでは、人材不足の幕府側の指揮官として戦ったことが認められ、江戸城開城後も市川・船橋戦争などで新政府軍と戦うも負傷して九死に一生を得ながら戦線を離脱する。徳川家の静岡移封後に偽名を名乗り沼津へ移り住んだ。沼津移住後、旧幕臣の子女への教育のため、沼津兵学校、集成舎(現:沼津市立第一小学校)、沼津中学校(旧制の静岡県立沼津中学校、新制の静岡県立沼津東高等学校と異なる)、駿東高等女学校(現:静岡県立沼津西高等学校)設立者となり、静岡師範学校の校長を務めた。東京に麻布学園を創設し、学校開設から亡くなるまでの間、麻布中学校の校長を務めた。また、旧幕臣の士族授産事業として、製靴業、牧畜業、茶の輸出会社の設立などを行い、愛鷹山払い下げ運動に非常に深く関わった。政治家としては、静岡県会議員、衆議院議員、貴族院勅選議員を務めた。所属政党は自由党、引き続いて憲政党に参加し、立憲政友会の結成にも尽力した。東京YMCAの理事長や、日本メソヂスト教会日曜学校初代局長を務めるなど、キリスト教徒という一面も持つ。

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