東村山駅東口に建てられた、志村けんの銅像でございます。




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words=’2020年3月29日に急逝された東村山市名誉市民、志村けんの銅像でございます。アイーンのポーズでございます。東村山音頭で東村山の知名度は全国区になりましたものね~そりゃあ銅像が建立されても不思議では御座いませんですな。’
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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    志村 けん(しむら けん、1950年2月20日 – 2020年3月29日)は、日本のコメディアン、お笑いタレント、司会者。東村山市名誉市民。ザ・ドリフターズのメンバーでもあった。ザ・ドリフターズのメンバーとして活躍する傍ら、亡くなるまで自らが持つ番組でコントを披露し続けた。生前時は渡辺プロダクションを経てイザワオフィスに移籍し、同じくザ・ドリフターズのメンバーで、2004年(平成16年)に死去したいかりや長介と同様に没後も籍を残している。1973年までの旧芸名の表記は「志村 健」。ドリフでの初期には「志村 ケン」名義での表記もあった。本名は志村 康徳(しむら やすのり)で、構成作家としては本名名義でクレジットされた。志村はプライベートで、東村山市および自身の実家に帰ることはほとんど無い。東村山ネタで人気が出始めた頃、地元における志村後援の動きは、元祖「東村山音頭」を企画した東村山市農業協同組合が中心であった。その後、東村山ネタが全国的なブームになり、東村山市自体も注目を集めるようになった。1976年7月、「東村山市の知名度を高めた」功績が認められ、当時の東村山市長の熊木令治から感謝状が贈られた。なお、この時に東村山駅東口の交番前に、感謝状授与記念と志村への激励の証として3本のケヤキが植えられた。通称「志村けんの木」。2015年に東村山市が市制50周年記念として木の前に看板を設置した。この看板の題字「志村けんの木」は志村の直筆であり、またサインも掲載されている。当初、志村の東村山ネタについて、市議会議員や教育関係者の中には否定的な者もいた。志村がテレビでギャグネタに「東村山市名誉市民・志村けん」を名乗り、これを本当と思い込んだファンもいたが、その時点では事実ではなかった。しかし、その約44年後の2020年3月29日、新型コロナウイルス感染症により志村が亡くなった以後、東村山市のホームページに追悼メッセージが約2万2000件届き、長年の芸能界での活躍や東村山の知名度を上げた功績等から「ありがとう」のメッセージのほか、「是非志村さんを名誉市民に」「記念碑を作ってほしい」という旨の要望も多く寄せられた。これを受けて6月23日、東村山市議会6月定例会で議案が提出され、6月25日に正式に名誉市民として認められた。25日の顕彰式には市長の渡部尚や市議、志村の遺族らが出席。式の終わりには、兄知之の呼び掛けで志村の代名詞的なギャグである「アイーン」のポーズを全員で決めて、別れを惜しんだ。生前、前述にもある東村山市政50周年の際にも名誉市民の依頼を受けてはいたが、当時東村山市に住んでいなかったことや照れなどもあり志村本人が断っていた。1995年には、東村山市商工会が主催した東村山駅開業100周年記念イベントで司会を務めた。駅前広場に立つ「東村山停車場の碑」前で開かれた式典の後の小規模な催しであったが、当時東村山市役所職員の兄の紹介で出演が実現した。東村山市商工会ウェブサイトではタイトルロゴに「あい〜ん」と表記していたことがある。志村の小学校時代の同級生が先代の社長を務めた和菓子店「餅萬」では、先代社長時代より志村にちなむ「だいじょぶだぁ饅頭」や「だっふんだぁどら焼き」を「東村山名物」として販売している。

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