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DoraNeko土山駅南口広場で見掛けた播磨町のオリジナルデザインマンホール蓋でございます。町内の大中遺跡が描かれております。

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Wikipediaから引用
大中遺跡(おおなかいせき)は、兵庫県加古郡播磨町に位置する、弥生終末(約1900年前)から古墳時代初頭(邪馬台国 卑弥呼と同時期)の代表的な遺跡の一つで規模の大きな集落跡。竪穴建物跡の一部は復元されており、1967年6月22日(昭和42年)には国の史跡に指定されている。1962年(昭和37年)6月24日に播磨町立播磨中学校の3人の生徒により発見された。多くの建物跡とともに土器、鉄器、砥石、そして貝殻や飯蛸壺、更には中国との交流を示す分割鏡などが発掘された。大中遺跡の出土品は、播磨町郷土資料館に展示されている。1974年(昭和49年)から県立史跡公園大中遺跡公園(愛称は「播磨大中古代の村」)として竪穴建物跡を一部復元して公開されている。2007年(平成19年)10月13日に隣地に播磨大中古代の村と一体化した形態の兵庫県立考古博物館が開館した。毎年、秋季には「大中遺跡まつり」が開催され、弥生時代の文化を体験する催しが行われる。1962年(昭和37年)6月24日、当時、考古学に興味を持っていた播磨町立播磨中学校3年生だった浅原重利、大辻真一、大辻要二の3名によって発見される。地元のお年寄りから、大正時代に大増畑(おおぞばた)と呼ばれている畑地(現在の大中遺跡)に別府鉄道土山線(土山駅から別府港間4.0キロメートルで1923年3月18日から1984年1月31日まで営業)が敷かれた時、タコツボが大量に掘り出されたことを聞き、遺跡北側に位置していた山之上住吉神社南側の土砂の採掘跡で大量の土器片を見つける。近隣の考古学に詳しい高校の教諭に土器が弥生土器だと鑑定される。採取された遺物は、約700メートル南西方向にある大中地区の善福寺(ぜんぷくじ)で保管され、その後、「遺跡発見届」が町・県教育委員会に出された事により、県の専門家による調査が始まった。発掘調査は、第1次の1962年(昭和37年)12月から第20次の2003年(平成15年)11月まで実施された。調査は、第1次から第5次調査・第12次調査から第18次調査を播磨町教育委員会が第6次から第11次調査・第19次から第20次調査は兵庫県教育委員会が主体となって実施された。大中遺跡は弥生時代の集落遺跡で円形や方形、六角形など様々な形の竪穴建物跡が多く残されている。竪穴建物の形式は円形建物から方形建物、長方形建物に変遷している。各建物は20メートルから30メートルの間隔をおいて分布している。墓は全く検出されておらず、水田などの遺構も検出されていない。竪穴建物跡は8軒復元され公開されている。茅葺屋根の材料ヨシは備前岡山から調達し、京都美山の職人たちにより復元されているが30年前後で葺き替えが必要。また、周辺の樹木も少しづつ整理され弥生時代の風景へと整備されつつある。