鹿児島中央駅の東口にあった、床次竹二郎像です。




[talk
words=’鹿児島中央駅の東口にあった、床次竹二郎さんの像なんですけどね。存じ上げなかったので調べてみました。とこなみって読むんですね~。Wikipediaにあったんですが、士族で政治家ですか。しかし読んでみるとボロクソに言われた人なんですな。しかし銅像にもなってるしWikipediaにも登場するし、ええこともしやはったんでっしゃろな~知らんけど(←知らんのかいw)。’
align=r avatarshape=3 bdcolor=#1e73be bgcolor=#fff avatarsize=50 avatarimg=”https://doranekoweb.com/web-memorandum/wp-content/uploads/doraneko.png”]

DoraNeko

にほんブログ村ランキング参加中。赤いバナーをクリックしていただけると感謝感激雨アラレちゃんです。

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    床次 竹二郎(とこなみ たけじろう、慶応2年12月1日(1867年1月6日) – 昭和10年(1935年)9月8日)は、日本の官僚、政治家、衆議院議員、内務大臣、鉄道大臣、逓信大臣、政友本党総裁。鹿児島県士族。「床次竹次郎」は誤りである。「万年首相候補」と呼ばれ何度も首相候補と評されるも、余人の不評を買って政権獲得の夢を遂に果たせなかった。政治の主導権が軍部・官僚から代議士に移りつつある時代を象徴する人物の一人でありながら、後半生では政党政治への信頼を失わせる失策を行い(このためか、大内力、粟屋憲太郎、島田俊彦、桶谷秀昭が揃って「政権亡者」と評しており、中村隆英は「政界を放浪して笑いものにされた」、筒井清忠は「常に政治的タイミングの判断を誤る人であった」、福田和也も「ポストをもとめて、右に左にと政党会派を渡り歩く、信念のなさは折り紙つき」、松本清張も「彼はさしずめ『風見鶏』の元祖かもしれない」と、いずれも評価は芳しくない)、再び軍部・官僚を政治の主役へ押し上げる遠因を作った。一方で鉄道員の福利厚生に意を用い、公傷退職者を救済するため鉄道弘済会の創設に尽力した。発会に当たっては、5,000円という多額の寄付をしている。党人としては上杉慎吉や平生釟三郎の篤い後援を受けた。

コメントする

目次