岡山駅西口二階広場にある、永日抄 −二人−。

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words=’岡山駅西口の二階広場にある、永日抄―二人―と名付けられた銅像でございます。岡山駅西口に程近い島田本町出身の児童文学作家、坪田譲治の作品の一つから取られたものだということでございます。この像が置かれた下にあるバスターミナルからリムジンバスで岡山桃太郎空港に向かいます。吾輩が岡山に赴任してまだ日が浅い頃に、勤務地は違えど部署が同じというややこしい状況の中でお世話になった同僚女子社員と待ち合わせして食事に行ったことがありましたな。その頃の部署メンバーは全員、現在は退社していて今でも在籍しているのって吾輩だけになってしまったんですよね~。’
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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    坪田 譲治(つぼた じょうじ、1890年(明治23年)3月3日 – 1982年(昭和57年)7月7日)は、日本の児童文学作家。日本藝術院会員。岡山県出身。同じ児童文学作家、児童文学研究者である坪田理基男は三男。1890年(明治23年)岡山県御野郡石井村島田(現在の岡山市北区島田本町)に生まれる。父・平太郎はランプ芯などを製造する島田製織所を経営していたが、1898年(明治31年)譲治が8歳の時に逝去する。大学生だった兄が家業を継ぐものの、以後会社の内紛が続く。のちに譲治も経営に参加する。(これは、後の小説に反映されることになる。)1908年(明治41年)早稲田大学文科予科へ入学。同級生の生田蝶介の紹介で小川未明を訪問する。1909年(明治42年)3月に大学を退学し兄の経営する牧場で働くが、8月に復学する。翌年9月、早稲田大学英文科に進学するが、徴兵検査延期願の提出を忘れたため11月に退学し、岡山第十七師団に入営する。1912年(明治45年・大正元年)1月に早稲田大学英文科に復学するが、9月に肺尖カタルのために茅ヶ崎の病院に入院、翌年8月に退院して大学に戻る。1915年(大正4年)早稲田大学英文科を卒業、翌年には結婚し長男が誕生する。1917年(大正6年)10月から翌年3月まで早稲田大学図書館に勤務する。1919年(大正8年)4月、岡山に帰郷し島田製織所で働きはじめ、翌年には大阪支店に異動する。1923年(大正12年)4月で島田製織所を辞めて上京する。1925年には早大童話会を創設。1926年(大正15年)短編小説『正太の馬』を発表、翌年処女短編集『正太の馬』を出版、また雑誌『赤い鳥』に童話を投稿したりするが、プロレタリア文学台頭の中、収入に結びつかず、困窮生活を送る。1935年(昭和10年)山本有三の紹介で『お化けの世界』を雑誌『改造』に発表。翌1936年9月5日-11月6日東京朝日新聞夕刊の新聞小説として連載、12月刊行した『風の中の子供』が、幅広い年代層の支持を得て一躍人気作家となる。戦後は、日本児童文学者協会の第3代会長などを務めた。後年は自らも早大童話会に続いて童話雑誌「びわの実学校」を主宰。松谷みよ子、あまんきみこ、寺村輝夫、大石真、今西祐行などの後進を育てた。『お化けの世界』や『風の中の子供』、『子供の四季』などの「善太と三平」物が名高い。全集が三度刊行されている(『坪田譲治全集』8巻本、12巻本。『坪田譲治童話全集』10巻本)。1984年12月には岡山市により坪田譲治文学賞が制定された。小川未明、浜田広介とともに「児童文学界の三種の神器」と評されていた。

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