現代漫才の祖と言われる砂川捨丸の像@南摂津駅前。




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words=’南摂津駅前にある、砂川捨丸の像でございます。大正から昭和にかけて活躍した漫才師でございますね。この地で生まれた人物でございます。現代漫才の祖と言われておりますですな。祖とは凄いですな。そうそうあるこっちゃないっすね。そーです、なんちゃって(←やかましw)。’
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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    砂川 捨丸・中村 春代(すながわ すてまる・なかむら はるよ)は、大正から昭和にかけて活躍した日本の漫才コンビ。古典萬歳から現代の漫才に至るまでの過渡期(この頃多くは「万才」と表記された)の典型的スタイルだった音曲主体の型を残しつつ、新たな要素も取り入れた漫才を演じ続けた。とりわけメンバーの砂川捨丸は、しゃべくり漫才登場以前の大正期において、寄席芸としての漫才の地位を高めるのに尽力した。出囃子は『岩見』。本名、池上 捨吉。実兄である江州音頭の音頭取りの砂川千丸の一座に入り、修業を積む。1902年(明治35年)、千日前の寄席「井筒席」で初舞台。その後、一座で全国を巡業。1905年(明治38年)には兄のもとを離れ、大阪松島の「堀内席」に上がる。1916年(大正5年)、樋口次郎吉率いる「樋口興行部」の専属となり、神戸劇場に出演。以後終生、神戸を本拠地とした。1918年(大正7年)、初めてSPレコードを録音。万才師による音曲のレコーディングは初のことだった。数え唄や江州音頭などをのべ数千枚吹き込み、捨丸は全国的に知名度を高めた。とりわけレコードを通じて『串本節』を全国に広めたことで、のちに和歌山県串本町名誉町民として表彰された。捨丸は春代とコンビを組むまでは、中村種春、加藤滝子、高橋笑子といった相三味線が弾ける相方を選んで組んでいた。若手時代から萬歳・万才の改良に取り組み、戦前、戦中、戦後を通じて多くの門弟を育て、漫才界の指導的役割を果たした。1971年(昭和46年)に引退を表明し、同年11月、角座で引退興行を予定していたが、10月12日に心筋梗塞で急死。80歳没。

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