岡崎公園前駅&中岡崎駅前にあった、内藤ルネのデザインマンホール蓋。

岡崎市のデザインマンホール蓋、OKAZAKI×Roots of Kawaii内藤ルネ、でございます。地元岡崎出身のイラストレーター・デザイナーであった内藤ルネ氏の作品が描かれたマンホール蓋でございますな。こんなのがあるとは知りませんでした。日本の「Kawaii」文化の先駆けとなった御仁でございますですな~。

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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    内藤 ルネ(ないとう ルネ、1932年11月20日 – 2007年10月24日)は、日本のイラストレーター、デザイナーである。本名は内藤功(ないとう いさお)。中原淳一に師事し、1950年代半ばから『ジュニアそれいゆ』など少女雑誌にイラストや人形作品を発表。以降の少女文化・イラストに大きな影響を与え、「Kawaii」文化の先駆けとなった。ほか1971年には「ルネパンダ」「イチゴデザイン」「白いインテリア」などを発表、発信し一世を風靡した。また、長年にわたり男性同性愛雑誌の『薔薇族』で表紙を描いたことでも知られる。愛知県岡崎市羽根町生まれ。生家は東海道本線岡崎駅の駅前の青果店。岡崎市岡崎国民学校(現・岡崎市立岡崎小学校)卒業。1948年、蒲郡町(現・蒲郡市)の紳士服店に住み込みで働き始める。1951年、19歳で抒情画家の中原淳一に呼ばれ上京、中原が主宰する出版社のひまわり社に入社。雑誌『ひまわり』、『それいゆ』の編集を手伝いながら挿絵などを描くようになる。フランスの映画監督のルネ・クレマンからとって筆名を「内藤瑠根」とする。1954年、『ジュニアそれいゆ』の創刊号から主要メンバーとなりイラスト・人形作品を掲載。この頃から1964年頃まで『少女クラブ』(講談社)、『りぼん』(集英社)、『なかよし』(講談社)、『女学生の友』(小学館)など少女雑誌各誌の口絵・付録・イラスト作品を多数手がける。1950年代、ひまわり社のモデル募集に応じて、東京都立駒場高等学校の生徒だった藤田竜(本名:本間真夫)が編集部を訪れる。このとき内藤は藤田にひとめぼれするが、藤田は同社発行の雑誌にモデルとしてたびたび登場することとなる。1960年頃に筆名を「瑠根」から「ルネ」に改めた。1961年頃から1980年代まで、マスコット人形・食器・インテリア雑貨・キャラクター文房具などを多数デザイン。1964年、『服装』(婦人生活社)に手芸・インテリアの提案などを行う自由なテーマ連載を開始、『私の部屋』(婦人生活社)に引き継がれ中断を経ながらも1992年まで続く。1971年、「ルネパンダ」を発表。翌年の日本でのパンダブームのさきがけとなった。同年7月、日本初の商業ベースの男性同性愛雑誌『薔薇族』の創刊号が発売。表紙を描いたのは当時内藤のパートナーであった藤田竜であった。内藤の絵は1980年から佐原サムの名で同誌に使われた。1984年2月号から内藤ルネ名義で、1998年9月号まで14年にわたり表紙を描いた。内藤と藤田は千駄ケ谷駅の近くの豪華なマンションに住み、バブル期に上北沢と江ノ島の土地を売って7億円もの金を有していたが、1990年代に趣味で集めた人形の美術館の計画で詐欺に遭いほぼ全財産を失う。2001年、僅かに残された静岡県修善寺町(現・伊豆市)の土地に自らの人形コレクションを紹介する「内藤ルネ人形美術館」を開館させた。2002年7月、東京の弥生美術館で初の回顧展「内藤ルネ展 〜ミラクル・ラヴリー・ランド〜」が開かれたのを機に新たなファンを獲得。かつて出版した著書が復刻されるなど再び脚光を浴びた。2005年7月、「内藤ルネ初公開コレクション展—日本の可愛(かわい)いはルネから始まった」が開催された。2005年に出版した自伝の中で同性愛者であることを告白した。2007年10月24日、急性心不全のため静岡県伊豆市の自宅で死去。74歳没。

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