錦糸町駅南口広場喫煙所の、本所七不思議。

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本所という地名の地域はおおよそ墨田区の南半分を占める地域でございます。江戸時代から伝承されている本所七不思議は、現在では都市伝説のハシリだと言われているようですな。錦糸町駅南口広場喫煙所に本所七不思議のパネルがございます。作画は、しりあがり寿さんだと聞いたんですが、ホンマでっか?

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コメント一覧 (1件)

  • Wikipediaから引用
    本所(ほんじょ)は、東京都墨田区の町名。または、旧東京市本所区の範囲を指す地域名である。東京都墨田区のおよそ南半分を範囲とし、江戸・東京の下町を構成している地域の一つである。本所は下谷・浅草・深川と並ぶ、東京下町の外郭をなす。概ね東京旧市内で、高台に比べ低地を多く占める旧区分を下町としている。そのため旧本所区に属する本所地域は下町に当たる。向島区との合併後も住居表示導入以前は「本所○○町」と旧本所区内大半の町が本所を冠称していた。現在においては町会、警察署や消防署、税務署等の管轄などで当時の区境や町境を継承している。本所の発展の契機となったのは明暦の大火で、深川と並んで、拡大する大都市江戸の新興居住区域の一翼となった。それでも江戸時代前期は町外れの辺鄙な土地に過ぎなかった。この頃本所に住んでいた人物に赤穂事件(赤穂浪士の討ち入り)で有名な吉良義央がいるが、彼も「江戸の外れに追い出された」といった愚痴を綴った私信を残している。同じ江戸市中でありながら東の外れとされていたことは正式採用された町名から窺い知れる。隅田川(大川)を挟んで、日本橋両国(現在の中央区東日本橋)と本所東両国(現在の墨田区両国)、東両国の別称「向こう両国」。浅草駒形と本所東駒形など。江戸時代も後期になると商業地として発展した。広重の江戸高名会亭尽によれば、本所から向島にかけて料亭が集積していたのがわかる。隅田川の桜並木は庶民が気軽に行ける行楽地となっていた。幕末には江川太郎左衛門の屋敷が置かれた。明治時代に入り、この本所から名をとった本所区が設置された。この本所区は1947年(昭和22年)に向島区と合併して現在の墨田区となった。工場立地の良さから徐々に工業地帯化が進んだ。1923年(大正12年)の関東大震災では本所を含む本所区の9割が焼失、約4万8千人もの死者を出した。また東京大空襲でも甚大な被害を受けている。1926年(大正15年)、安田財閥の寄付により本所公会堂(現、両国公会堂)が建設。鉄筋コンクリート造4階建、定員790人の大・小ホールを有し、各種イベントに利用された。 1928年(昭和3年)4月29日には、同公会堂で無産党民衆大会が行われ、会場の取材に当たっていた新聞記者が場外警備に当たっていた原庭警察署(現、本所警察署)警察官から暴行を受ける事件が発生。謝罪を求める新聞各社が抗議活動を展開、国会でも取り上げられた。1945年(昭和20年)、東京大空襲が始まる。終戦までに本所区の約96%が焼失した。1955年(昭和30年)8月1日、厩橋にあった花火の作業場で爆発事故が発生。従業員ら18人が死亡、27人が重軽傷。木造2階建ての工場1棟と付近の家屋13棟が全半焼。鉄道の整備が進むにつれ、墨田区の商業の中心地は南部の錦糸町に移っていった。1960年代には隅田川東岸に首都高速6号向島線が建設されたため、かつての景観は失われた。2012年に本所北端部に当たる押上に東京スカイツリーが建設され、東京を代表する観光名所の一つとして賑わいを見せている。

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